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2022/07/23
夜道をあるくとき、冷たい外気が肉をやわらげ、とかし、のばす。記憶やイマージュも空気を吸う。道はいつも同じではない。時間帯や小さな移動だけではない変化が、私の身体の幻と溶けて、あるいは生成し合い、そこにカメラを持たすことができれば、何かが映るだろう。通常考えられるものではない自撮り写真を撮っていた(あるいは撮れていた)時期、僕の顔は個の持つ輪郭がなく、ぼやけるように、とけるように、写真のなかでふるえていた。それは現実にもそうであるからだろうが、今のぼくはいくらか社会化され、異様さは失ったように思う。
「お前は事実を書くことを恐れているのか。なあそういったどうでもいい些細なことを捨てろよ。お前が慎重になればなるほど文章は死んでいく。もちろんそうではない人もいる。だがな、人と比べるな。お前はお前を知っている。あるいは知っている限りにおいて知っている。時間は限られている。ああ、お前の嫌いな言葉だ。でも俺はそれを乗り越えようと思っている」
「迂回するだけになる気がしているんだ」
「グラウンドを十周走ってみろ。グラウンドが現れるのではなく、その走り、その加速が現れる。それを俺は見ている。俺は全てを見ることができる。見ることができないものも。それが書くことだ。走ることだ。一つのテーマは分岐を持ち、曲線を描いてありえない地点へ向かう。そこは蜃気楼かもしれないが、まさかそれで尻込みすることはないだろう? 蜃気楼こそが現実であるという瞬間がある。時間は限られている。何度でも言おう。時間は限られている」
夜道は踊りながら歩く。身体の地点を示すことない踊り。地点よりも地中へ潜るかのような踊り。太古へと手を伸ばし何かに触れるような踊り。触れることが伝われば(この伝わるは誰かにではなく何かへ)また踊りは変容する。言葉だけになってしまうのなら、それもそれでいい。これは無数の試みの一つにすぎないのだから。どんなに下手でも、無意味でも、それが次の試みへ繋がる。繋がらないとしたらそれもまた繋がる。僕らはどこまでいけるか。
そこには扉はなかった。
そこには何があった? そこには銀のポストがあり、中は空だ。
そこには家はなかった。
自らの身体が局限されるとしたら、場所は鍵となる。それを知ることができずに、病者は自らの病を言葉として固着させる。
ありふれた父への呪い。ありふれた母への愛。それではどこにも行けない。
そうしたものは廊下から聞こえてくるものだ。その女性はそのことを知っていて、だから自傷行為をする。
私はそれに触れ、リビドーの根源的な流れを感じ取る。それは性触である。もしかすると交わりに等しい交流であったのかもしれない。
僕は男で、彼女は女であったから。
しかし現実にそれは起きず、想像の中で行われ、決して性欲を抱かなかった。
だからどうした。
「芸術は爆発だ」はよく「芸術は場数だ」と聞き間違えられていたという。量、という言い方よりも場数、という言い方の方が、芸術における量をうまく言い表している。場数の場は同じ場所とは限らない。さまざまな場所で作ること。私は一人だが、いやもしかすると一人でもないのか、私たちはそこで手を使い、時間を織り交ぜて、何かを作り上げていく。さあ、移動だ。芸術は幻ではない。動かすことが事実になる。動かないものは、それ自体が記憶である可能性がある。そろそろ『徴候・記憶・外傷』の続きを読み始めなければならない。即興と記憶について、私は考えることができる。本というものを作る試みとして、私は書き写し原稿を作っているのかもしれない。ただ一つの、一冊の本というものは面白くない。だから本棚というものがあり、本の山というものが生まれ、そこから無造作に、しかし無意識はしっかりと保たれ、選び取られる。
それは人間も同じだ。それは動物も同じか?
人間は読むことができなければ、何か運動しなければならない。
漫画があることで、小説は衰退した。
映画があることで、写真は衰退した。
衰退という音の灰青色を吸う感触。
人間は読むことを、強制的に強いる必要がある。
読むことはできない人間は、解釈を求める。わかりやすさを求める。まとめ、を求める。要約、を求める。それがなぜいけないのか、今の俺にはわからない。
人には限界があるから。
僕はその人たちを見捨てて、自らに身を任せるのでもなく(なぜなら、身体だけではとてもじゃないが世界を捉えることはできない)、思考を持つ。
思考は果てしなく分岐するが、書くことでそれを記録することができる。
お前はこの文を読むことができるか。
俺はいくらでも読むことができる、と言いたいところだが、一日に本を読むことができるのは三時間くらいだ。それ以外の時間は、作ることにしている。
あの場所もあったな。あの場所では俺は何ができているのかな。ずっと緊張しているのかな。どうでもいい人たちと、楽しくして何になるんだろう。
どうでもいい人たちと会話をして、彼らまたは彼女たちを知って、何になるんだろう。
社会へ出ることができたとして、そこで何ができるだろう。
今はわからないが、そこへ行こうと思っている。
来週は夏休みだ。
区切られた文はリズムを生む。
リズムは書く指に依拠している。指から離れた文字こそが、イメージとしての記憶を喚起する。
体にべったりとついた文字は、それだけで汚らしい。
僕はさっき肯定したことを否定するかもしれないし、肯定も否定もできないと断言するかもしれない。
そこには何もないかもしれない。
そこには何もなかった。
ここには。
さあ、続きを書いてください。
「夜道を歩くときに僕の首の痛みは強まったり弱まったりするのは僕自身の心身の問題だけではなく夜やその道やその町の人々のよくわからないなにかが影響し合っている中で反応を起こしているからかもしれない。夜道はひとりで歩くものだ。女が僕に驚き、横の彼氏らしい男に抱きついたが、それを僕はごく当たり前のこととして受け入れた。なぜなら僕はそこで確かに変態的にシャッターを切る予感をたずさえて歩いていたから。時間はもう少しゆっくり流れるべきだ。時計は時間を表しているのではなく、記号を表している。本当の時間を感じるためには、時間について考えなければならないが、それを考えている間も時間を感じることはないだろう。指も体のどの部位とも同じように熱を発している。爪でキーボードを打ち込むことはできない。やろうと思えばできる。でもそれは、とてもよくない。でも手足がない人が音声入力で原稿を書くことができる。声は手となって文字を書くのか。音声入力について考えてみたい」
太陽が時間を作り上げているということはできるか。太陽の傾きによって時間はわかる。影時計のように。月は何の役割があるのだろう。陰陽というものには月と太陽が当てられる。そこに川が流れ、道ができ、動物たちが歩いたり泳いだりする。現実の誰かはぼくのことを考えたりする。僕のことを考える人は、この今の瞬間に、一人はいるのだろうか。
僕があなたたちを今思い出し、考えているように。
記憶としてあなたたちを思い出しているのではなく。
記憶じゃなかったら何なのだ。
僕はもっと肉体的に思い出しているんだ。
ドゥルーズの『ディアローグ』を読み始めた。あまりにも面白くて危険であった。千葉雅也がツイッターでドゥルーズ入門として勧めていたので買ってあったのだが読んでいなかった。坂口恭平の『けものになること』が僕の最初のドゥルーズ体験であった。あの小説はマジでとんでもなかった。二回か三回読んだ。一週間で書き上げられたのだっけ。あれがある時期の僕の理想であったが、それでは僕の何かは出てこなかったのか。それは何かにはなったが、それ自体が独立したものとして耐久するとは今は思えない。
『ディアローグ』とはダイアローグ、つまり対話のことだろう。ああ、このところ僕は対話のことを考えている。それを意識せずに、この本を手に取り、読み始めていた。
こわい。
そういうことも、それから、こうして書くこともこわい。
話すこともこわい。うごくこともこわい。
言葉で考えることができることも、言葉で考えていない考えるがあることもこわい。
それに気づかないようにするために、人は言葉を使いすぎないようにしているのかもしれない。
人は危険なものから身を守るように、言葉から身を守り、漫画や映画やアニメなど、言葉ではないものに行くのかもしれない。ぼくも逃げたくなってきている。
四千字原稿を書き続けることは確かに危険だ。
そのとき、風景から思考を始めるという言葉が遠くから響いてくる。
危険なものに接しているとき、人は快楽を感じる。
そうやって、性虐待が起こる。殺戮が起こる。
人は危険なものに接したいという欲望と、そこから逃げたいという本能を持ち、その両者は51:49か49:51で勝負が決まる。
もしもっとバランスが悪かったとしたら、既に死んでいるだろう。
犯罪者について考える。物語というものが、言葉によって生まれながらそれが言葉ではないということがあり得る。
ぼくはとてもこわくて、そこから逃げようとしている。
逃走することがこうして文章になるのだとしたらそれも良い。しかし天井のない恐怖へと覚醒してしまうことが再び起きるとしたら、それを予感するとしたら、ぼくは書くことを止めるだろう。
そうして、歩き続けるだろう。
『歩くことの精神史』を読みたい。言葉だけになったら危険で、言葉だけではないものは、風景や運動だ。
体がついてきていないのだ。四千字はどんどん先へ行くから、体は置いていかれる。
今日で一週間だから、明日からの一週間は批評を書いてみようか。
どのような?
一日2000字くらいで、七日間。14000字。それでいこうか。
書くことはやめず、書き方を変えていく。持続から変化をつけて、また持続する。
それでいこう。
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