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2022/07/20

 今ぼくはぼくの中に何もないと感じている。バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を一時間ほど読んだが、その後に『独学大全』を読み返しながら計画表の前段階のものを作ったことが影響しているのか、疲れたと同時になんだかぼくは何もないなあという感じになっている。その今、四千字原稿を書くこと。つまり何もない時にも書くということ。読むことから始まるのではなく、書くことから始めることが、ぼくにとってはとても大切であるが、それをよく忘れてしまうから、こうして毎日書くということを習慣化してしまえばいい。

「いま何を考えている?」
「今ぼくは自分の中の空白について考えている。空白に立ち返っている、と言うこともできるかもしれない。文字または文というのはふしぎで、何もなくても書けてしまう。打ち込みだと文字は同じだからわからないが、手書きであれば文字がたるむ。淀む。今のぼくはその状態で、それでもその状態で書くことについてもまた考えている。空白について戻ろう。空白とは何か。紙には空白がある。それは白色だから。文字が空白なくぎっしりと書かれた紙は、白いところがないから真っ黒になる。石川九楊の書を思い出す。上野美術館で見たのだっけ。「がんばってください」とそっと言われた。紙を置いて書くと墨が概念として染み込み抽象となる。壁にかけて書くと重力の影響を受けて油絵と同じように具象となる。それを耳元で、まるでぼくの中に書き込むかのようにして石川九楊は小さめの声で言ったのだった。あの時見た、巨大な、白いところがない書が、今こうしてあらわれてくる。空白でも、物語があればいいのだろう。物語が、その記憶が、いつまでもあるのだろう。肉体、つまり即興的な肉体は、記憶以上に肉が外界と内界から感受するものをもとにうごくから、体の中が空白に感じられるのなら、それ以上のことはできないのではないか。そういうことも考えている」
「私はあなたの話に対して、調和するべきか、バフチンが書いていたようにポリフォニーとして、対等な別種の個として、あんたに語りかけるべきなのか。しかし、自分以外のものが、自分の中にあるというのはどういうことだろう。ドストエフスキーさん、教えてください」
偽ドストエフスキー「私は偽ドストエフスキーです。偽ですので本物とは別のことを考えています。しかしドストエフスキーのいない今、ドストエフスキーと同じことを言うよりも、ドストエフスキーから始まった偽の言葉を発する方が、はるかに意味深いものではないでしょうか」
「御託はいいから何か言ってみろよ」
偽ドストエフスキー「どうして私の中に複数の人間がいるのか、ということですね。このことからすぐに連想するのは多重人格です。『二重人格』という作品を初期に私は書いています。私はその内容を知りませんが、一人の中に二人がいる。そしてその人間が他の人と関わる。二重人格者は他者と調和することはできない。ここに重要なことが秘められているはずです。キューブリック監督の映画『シャイニング』を思い出してみてください。主人公の男の子(と書いてみて、この映画には主人公はいないような気もしますね。この映画全体が、一つの人間の世界であると言う方が、しっくりきます)は、二重人格者です。男の子のもう一つの人格トニーは外部から来ていると言うことができるでしょう。父親が狂気に陥ったとき、男の子の人格は消え、トニーだけが残ります。二重人格者はその他人格が外部と接触するためには、主人格と接触できないが、主人格のことは意識していなければならない。トニーは黒人の料理人という外の世界とのつながりを持っています。二重人格者は、外界に対し、常にもう一つの人格を意識しなければならないので、外界と調和することができないのです」
「なんだかぐだぐだ喋っているな。やっぱりお前は空白から生まれた空白だ」
偽ドストエフスキー「あなたが言っていたじゃありませんか。空白から生まれた空白によって、空白は押し広げられて、そこにおいてこそ、文字は書かれると。最初の空白には文字を書くことはできないのだと」
「そんなこと言ってないけどな。でもそれはいい言葉だ」
偽ドストエフスキー「ありがとう」

 空白は制限がない状態である。本を読み、それが体の中に肉体的に蓄えられることは、体に制限が加わることである。むしろ制限によって空白の広さやかたちや質が変異し、その上でわかるということ。同じことをいくら言ってもいいのは、それによって自分の限界がわかるからだ。同じことだ、と言って、言うのを、あるいは書くのをためらえば、それこそずっと同じところにいることになる。
 思考をつなぎ合わせ、一つの体系を作るためには、調和ができなければならないが、私が存在するためには、ポリフォニーであらねばならない。批評とは僕にとってそのどっちなのか。

 もう書けないという地点で、とにかく手を動かす。それでは疲れてしまうのなら、もう何も考えないということを意識して、つまり何も意識せずに書けばいい。
「時間は限られている」
 そうやって時間に追われたら、人は日記しか書かなくなる。日記の悪いところは、事実をどうしても意識してしまうことにある。事実は不変である。だから事実ではないことを書く努力をしなければならない。わかりますか。時計は動いている。しかしその時計は時間ではない。秒針の音が聞こえる。秒針の音が痛い。それでいい。さまざまな音。例えば。
 あなたが廊下から聞こえてきた話は、使い古された考え、固着した考えの、死んだ言葉たちであった。と同時にそれは病的であった。病的であるとは何か。動くことができない、ということだ。動くとは何か。それを考えることができるということが動くということだ。絶えることのない欲動の波を、常に感じること。
 坂口恭平『カワチ』を読んでみな。

 『行動経済学ノート』という本が、本棚にある。少し読んで、とても面白いと思い、と同時にこれは恐ろしいとも思い、これを学ぶのであれば、これを悪用するひとから、これを知らないひとを守るためだ、と思った。おそらく近いうちに少しずつ読み始める。図があり要約があり、応用がある。もしかすると僕は、この本に書かれているようなことに殺されたのかもしれない。
 ごちそうさま。

「中井久夫は統合失調症が解離しにくいことから、「洗脳に対する抵抗」と述べている。病にはそう言う面もある」
 この文は斉藤環のツイートです。最近のカルト宗教関連のニュースに対してのツイートであったと思う。このツイートがどういう意味なのか、まだよくわかっていない。洗脳されることから抵抗するために、統合失調症が解離しない。相手から調和されそうになると、病が浮かび上がる。そう書いてみても、まだよくわからない。
 だが、これはぼくのことである。

 日記的なことを書いてみようか。
「今日読んだ本の話をしようか」
「あなたの話が聞きたい」
「僕の話?」
「あなたはあなたの話ができないから、それをできるようにならなければならない。あなたはあなたを自らに見出して初めて、あなたが最近よく言っているポリフォニーをすることができるんじゃないの」
「そしたら、自伝を書くようだね」
「ようだね、じゃなくて、書いてみて」

 僕は記憶がないから、記憶を鍛えなければならない。保坂和志が『書きあぐねている人のための小説入門』で言っていたのは、風景描写は記憶を肉体的に粘り強く押し広げることができる、と言うことだったのかもしれない。どうして略称というものがあるのだろう。どうしてその人の名前を出さないのだろう。個人情報だからか、それとも、カフカが『城』で主人公をKにしたからか。僕の名前もKです。由来は健やかに太くということらしいです。井出の井の語源は井戸の形でもありますが、首枷の形でもあります。僕が常に首が痛いのはそのせいのようにも感じていましたが、どうなんでしょうねえ。

 断片的になってきている。こういう時はゴダールを観たり『カフカ式練習帳』やカフカの日記を読むといいのかもしれません。どうして断片の集積ということが起こりうるのでしょうか。ベンヤミン・コレクション2『エッセイの思想』を読むといいかもしれません。(追記:読むべきはベンヤミン・コレクション6『断片の力』でした)本の裏にはこう書いてあります。
「〈体系〉的思考に対して異端をなす、〈エッセイ〉の思想の根幹――それは、手仕事的な細部へのまなざしである。そこはまた、私たちの「経験」の息づく場所でもあるのだが、もし批判的感性がそのような細部に感応するなら、それは同時に、対象の内部に忘却されたままの、全体制と無限性を予感させるものとなるだろう。そのとき、このエッセイそのものが自身の時代の感覚器官となっていることに、われわれは気づかされる。中断と飛躍を含んだ思考のリズム、巧みに布置された理念やイメージの群れ――哲学的考察も、これらを恐れはしないのだ。」
 本というものは、ふしぎですね。中井久夫が言うように、背表紙を見ただけで本の内容が、それが読んだことのない本でも、入ってきてしまう。それがなぜなのか、あなたは説明できますか。作家と装丁家が、どのように繋がるのか。印刷された文字を、見なくても体は読み取ってしまう?
 本がそうなのなら、人もまたそうだろうね。廊下から聞こえてきた声で、ぼくはとても調子がわるくなってしまった。相性の悪い相手は、すぐにわかる。

 誰のこともおもしろく感じるよ。

 それは本当ですか。

 明日は休みなので、今後の計画をしっかり立てます。とても面白い本を送ってくれてどうもありがとう。あなたが教えてくれた本はどれも、わたしが今求めている本であるのはなんでなのでしょうね。もちろんそうでない時もあるのは、わたしがわたしでないときがあるからなのでしょうかね。空っぽな状態でも四千字書けました。十日に一回何かになるものが書ければいいんじゃないでしょうか。それではラジオ関西どうもありがとう。

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