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2022/08/02

 暗い部屋。今いる場所。脳の体は塞がれているが肉の身体は常に変容している。その手に全神経が注がれた後に切断され、僕の体は空海、最澄、永世の御託を並べられた最上級の幻影を内に秘めて明日や明後日の領域外にいる。書くことがとめどないとしても、どこかに出口を、それは非常口かもしれない出口を目を起点とした内臓の花の腐乱とともに探している。
 出口に顔があるのか。出口が自撮りしているのか。その中に入るために、出口の顔を解体するのか。目や鼻や口などの力点が川や海の放流となってその流れに逆らう一隻の船としてのぼく、ああこのぼくの限界点としての輪郭はむしろ限界突破点として非常口である。皮膚は常に空気空間と交流していてそれを見つめ続けることは危険だが、そして非常入口も非常出口も常に解放されていてはならないが、歩くこと走ることはその加速その減速減速とは加熱加工改変その節度非常、停止することがないのなら構わずに書けばいい。
 舞城王太郎と古川日出男。舞城王太郎は『ビッチマグネット』『短篇七芒星』『私はあなたの瞳の林檎』『されど私の可愛い檸檬』『畏れ入谷の彼女の柘榴』を十日ほどで集中的に読んだ。分岐線はいくつもある。精神分析というか、批評というか分析というか、出来事に対する解釈が小説の中にいくつも食い込まれているのにそれで終わらずに速さのなかでそれを文体というのか思考というのか小説的身体と呼ぶことができるのか、その速さが止めるかのように思われる分析をとどまらせずにいることに驚き、凄まじく、それを読んでいる僕もまた速さの中にいるということに勇気づけられるのだ。次は『ディスコ探偵水曜日 上・中・下』を読むのか? その前に古川日出男だ。『あるいは修羅の十億年』が待ち受けている。この二人の作家のことはすぐにまた触れる。
 体が膠着状態であることが、指の動き文字の生成(Macのライブ変換機能を使っているから、打ち込み続けているとひらがなが勝手にうごめくように漢字に変わり、その漢字も言葉の前後によってまた別の漢字になり、生きているかのようである)が僕の身体を運動させる。一週間四千字原稿を書くと僕は言葉がこわくなる。もう書くのは嫌だ、怖い、逃げたい、となりながら書くものは後で読むと面白いが、そこで行き止まりになることはつまらない。どうしたら「非常口」を見つけることができるのだろう。ありえない量の文章を書くことが可能になるのだろう。どこまでも川が流れる。その川は堰き止められていたのだ。もう少しで決壊するところだったんだよ。それが今はあまりにも自由でいて、今度は氾濫しそうだよ。
 先へ。
 ぶち壊しへ。
 いつまでも続かせたいのなら、すべてを一つのぼくが貫けばいい。『ほにゃららサラダ』の高槻くんのように。全てをやることが、ちまちましたことではなく全身運動となることを。その本棚が動いていないのならば、僕が本棚になればいい。
 僕が物になるのではない。物が死んでいると言いたいのではない。物は確かに生きているが、(鉄は?銅は?)鉄も銅も生きているさ。すべてのものは呼吸している。だからこそ思考が生んだ擬似空間が独立することは死ぬことに等しいが、しかしこのディスプレイはどうだ、文字が表示されている、これも擬似として死んでいるのか。だから言っているだろう、これは生きた僕の一部であると。主がどこにあるかが大事なんだよ。物は生きていて、しかしそれを直視することは太陽を直視することに等しいなぜなら樫村晴香が言ったように物は太陽に所有されているからだ。と書いてみて、樫村晴香が書いていたのはこうだ。

「光の源泉である太陽のもとには眼の働きが賄われ、働きは太陽から注ぎ込まれたものとして太陽に所有されている。」

 眼の働きが太陽に所有されているのであって、物が太陽に所有されているわけではない。僕にとってみれば眼の働きがすべてであるかのようであるから、物が太陽に所有されているという言い方もできるが、そうではなく、あくまで世界があって、その後に僕があるということを、この引用文は示している。
 ありがとう樫村晴香さん。
 物を見ることは太陽を見ることに等しい。真に物を見るとき、それは太陽ではなく物となる。真に物を見ることに、僕が含まれないことに自我の領域がある。分裂病者は個が起点となっている。水島芹馭さんの「風景から思考を立ち上げる」というのは、風景が起点となることで、そこに開きがある。身体が開くのではない。世界が開く。
 だから世界が顔になることはないし、世界の非常口は完全に光の抜け道となって、私の体も変異するだろうし、変貌するだろうし、それは水や火や同じ光となって或いはそれらは混じり合い一つとなりお前がよく言っている複合体となりいやそこにはもう体はないかもしれないが(ほらもう少しじっとしていろ)、抜けていく通っていくその喉に入っていくように。
「なあ俺は天才だ」と言ってKは発病した。Kの発病は耐熱装置を破散させる。すべての過去形は現在形であると定義する。未来形もまた現在形である。十字架を背負う者という命題。ああキリストChristoは十字架に吊るされていたのではなく背負っていたのだ。そんなことも知らなかった! どれほどの水の流れも必ず大量の水につながっている。大河につながっていると言っていい海につながっていると言っていい、なあ体があるここは地面ではなく床でもなく流れだ。ダムの決壊の凄まじい濁流だ。たまにそれは海のように静まり、それは俺にとって不穏であるから俺が歩くことで海は割れる。わかるか。割れた海はその分の水量を大陸へ流すんだ。人々が沈むんだ沈むのだ俺の四千の歩行によって何億の人々が。巨大な海よ地上は至る所にある、破綻した光景はそれ自身に補完されて自立する。俺は犠牲者とともにある!
 お前が殺したんだろ。
 殺すこと、すなわち供養することである。
 死者のための死者か。
 巨大な旋風を見よ!

 鳥は飛ぶ鳥は飛ぶ、そうやって浮かんだ脳情報はすべて遮断し肉情報或いは内臓情報が発芽した手の動きその数百億の瞬きと巨人の巨手が空間に間違いを正しさとする虚点の津波を作り、そこに重なるもう一つの太古のやはり巨きな手が赤や青や黄緑や全身剤としての複合色をぶちまける。創造とは壊すこと、というのは、間違ったことを正しいとすることなんだ。それがようやくわかったよこの七月!
 間違ったことをすることで僕らは僕らになる。僕らは変わる、なぜなら間違ったことを恐れないからだ。そこでそれを躁状態の波だとか、発病の前触れだとか、メルトダウン手前の制御棒が壊れた原子炉だとかと例えて俺を捉えようとする医者やその手の使者たちよ、ありがとうありがとうだが俺は狂気に翻弄されることはない、このアルトーの狂熱は既に完成形を示している。そうだ完成形だ。そこに肉情報が敷き詰められていて、それが種子でありそう肉の種子でありお前の意識無意識を超えた何かであり、vaginaの発芽、ペニスの成長、その持続、地下熱による逃走、そうだ、書くことは逃走することである。逃げた場所が新地点であり、それこそが闘争と言えるだろう。
 ご覧なさい、ノートに記述している俺を。
「昨晩の錯乱はやはり限界点からの回帰であったが、それすらも非常口の突破であると今では言える。俺の中にいる無数の芸術家たちは芸術家と自称または呼称されることを激しく嫌悪しているが、それでいい、お前が嘘をついたり、正しいことだけを言っているのでないのなら。手が覚えているのならそれもまたそれでいい。俺の手が歩行するのなら、それもいい」
 遠くで、あるいは近くで、あ!る!い!は!どこかで、地上を疑うということが起こる。それは現在であり、現地点であり、逆らうことはできない。しかしそれに対し脳を働かせることはやはり無意味だ。無意味であることを喜んで、そこに無数の本の断片を散りばめる。ああ俺は古川日出男の『あるいは修羅の十億年』が楽しみでならない。『聖家族』『南無ロックンロール二十一部経』『女たち三百人の裏切りの書』『平家物語』『平家物語 犬王の巻』『ミライミライ』『おおきな森』『曼荼羅華X』が楽しみでならない。俺は本を速く読むことを覚えた。それは記憶を使って読むことだ。俺は今まで肉で読んでいた。それは過酷で複雑で面白かった。でも記憶で読むこともまた面白い。記憶が電子書籍を生んだのだと今では合点している。もちろん俺はそれには手を出さないが。ありえない量としての小説。密度ではない決して密度ではないそこに現実があるのならどこまでも突き進むことができる。そこに現実の外への変貌があるのなら。
 ありえない声。ありえない容姿。ありえないあなたが好きだ。
 地上では四千の歩行は無意味であるとされている。なぜならそれでは数キロしか歩けないからだ。しかしどうだ。言語の限界点の四千の歩行は、ああ、こうして雪の大地が現れる。白樺の木々が立ち並ぶ。雪化粧だ、という間もなく埋もれてしまう。それこそが震災、それこそが大災厄である。

 力を抜いて、現状を教えよう。俺はノートに無数の言葉を書くようになった。こうしてキーボードに打ち込むだけではなく。筆記具は常に変える必要がある。ボールペンから万年筆へ、俺の手は求めている。肉として書くということはもう俺には退屈極まりなくなるのは歩行した後に振り返ることはあまり意味がないからだ。誰かの裸を見るとか、誰かの日記を読むよりも遥かに意味がない。でも俺は俺にしか興味がないのではない。俺は常に盛りを迎えている。宴が始まっている。それが錯乱、または異常事態として! 俺は書くことが好きだ。これを読むあなたも、そうであるといい。

追記:吉増剛造と古川日出男の対談というか「声のライブラリー」というシリーズ?の一つを聞くあるいは見ることが起爆剤となった。吉増剛造を常に一冊読むことは自らに課すべきである、と、強く思った。

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