整理の本を無くした


ツイートでも会話でも、なにかにつけて「めちゃくちゃ」という言葉を頻繁に使っている。いい意味でも悪い意味でも(主にこっち)うまく言葉で言い表せないんだけどなんかすごいことを表現しようとしている。しかし同時にこれは表現の放棄というか、何でもかんでも「エモい」「ヤバい」で片づけちゃうみたいな良く無さを感じている。日常会話ならともかく、推敲する余裕があるツイートでもインスタントな言葉で済ましていいのか。まあツイートはそれ以前の話のようにも感じるが、とにかくもうちょっと言語化に力を入れても良いんじゃないかと急に思いたった。作詞をするときも大きな感情があるんだけど言葉が出なくて破壊に走っている事が多い。

はじめに言葉ありき。言葉は世界に輪郭を描いて秩序をもたらす。ゆる言語学ラジオでも似たようなことを言っていた。「めちゃくちゃ」を無暗に使ってはいるがその実本当にめちゃくちゃで、「おしっこ」も本当におしっこなのだ。
時間操作みたいなスピった話に足を突っ込んでしまうけど、翻って僕は言語化という行為が現実を変える力を持っていると考えている。言霊というものが信じられてきたように、言葉は現実世界をも左右し得る。電話口で言ったことが本当になるもしもボックスみたいに、晴れると言ったら雨が止んで、飛べると言ったら空を自由に飛べるようになってもおかしくないじゃんと。だからなるべくポジティブな事を考えていたいし、なるべく多くを肯定していたい。これは本心。でも実際にはいろんな思いが交錯して良く分からない大きな塊になって、それを破壊衝動と判断して大学生死ねとか全員ぶっ潰すとかばっかり言っている。しまいには友達に「そんなにいろんなものを嫌っていて生きずらくないの?」と純な質問をされる始末である。人と話して行ったこと無い場所に行って好きなアーティストのライブを見て、美しいインプットだって沢山あったはずなのに、あまりにも世界を嫌って訳わかんなくなっている。どうしてこんななってるの?

ともかく「めちゃくちゃ」な現状を打破するためには、複雑に絡まった思考を綺麗に解きほぐして整理するべきで、やはりなるべく多く言葉に変えていったほうがいいと気づいたのが最近で。ちょうど「思考の整理学」という本を持っていたんだった、面白かった記憶があるし読み直してみるか・・・そう思って部屋を探したりしたが部屋がめちゃくちゃなので見つからなかった。