『何も残らなかった』とは言えない日々 #月刊撚り糸


親愛なる友人からの投稿作品です。
note未登録のため七屋糸が代わって公開しております。



「なに笑ってるの?」
「い、いや…別に」

 僕と鈴木のありがちな日々は、ここから始まった。

 この学校は同級生が多すぎる。別に、他の学校の生徒の数を知っているわけではない。ただ、人見知りの僕が同級生全員を認識することが不可能なくらいに同級生が多い。中高一貫校なのに、高校2年にもなって未だに新しいクラスメイトに知らない人がいる。
 文理選択や成績、志望校のランクなどを反映した大規模なクラス替えでこんなことになってしまった。そしてこのまま卒業を迎えることになる。二年間、同じクラスだ。上手くやっていけるのか不安が大きい。

「ぶぇぇぇぇっくしょん」
 知らない人がいるクラスでの新学年が始まってしばらく経ったある日、数学の授業中に後ろにプリントを配ろうとすると、僕の肩越しのプリントを受け取るはずの鈴木が豪快なくしゃみをした。
 授業が始まったばかりの教室のざわつきに紛れたものの、音の響き方的に口を押さえる手は間に合っていなさそうだった。鈴木からの大量の飛沫が自分のブレザーの背中に降りかかる図をイメージして寒気がした。
 この鈴木という女とは今年から初めて同じクラスになったから面と向かって文句は言えるほどの関係性はないし、そもそもそんな勇気が僕にはなかった。
 すると、鈴木の可愛げ皆無のくしゃみに、僕の隣の席の下田がツッコんだ。
「お前、どんなくしゃみしてんだよ。きったねーな」
「うっさいなー。花粉症になってから言えって」
 鈴木が鼻にかかった声で言い返す。

 二人がやり合う中、僕が差し出しているプリントは僕の肩にぶら下がったままだった。僕は諦めて体を振り返らせて、プリントを鈴木の机に置いた。
 この学校での生活ももう5年目なのに、鈴木とは本当に一度も会ったことがない気がする。同じクラスになってからの様子を見るに、人気者の部類に属しているらしく少し怖かった。だから、ついさっきの間抜けなくしゃみには必要以上に驚いてしまった。
 僕はプリントを机に置き終えるまでの数瞬、鈴木を盗み見た。鈴木は涙目になりながら鼻をかんでいた。その鼻は、花粉症であることがすぐ分かるくらいに赤く、僕は少し笑ってしまった。
「なに笑ってるの?」
 一瞬の含み笑いだったのに、プリントを後ろに流し終えたばかりの鈴木に捕まってしまった。無駄に鋭い奴だ。
「い、いや…別に」
「理由なく笑わないでしょ。どうして笑ったの?」
 一瞬の沈黙を挟んで、観念した。
 卒業までの二年間、クラスの一軍たちにイジメられる覚悟も瞬時にした。
「いや、豪快なくしゃみだと思ってさ」
 恐怖を悟られないように、最大限に堂々と言った。
 目は見れなかった。
 緊張に溺れそうになっていると、思わぬ助け舟が隣の下田から出た。
「さっきのくしゃみマジでやばいよな〜」
 下田とは入学当初からの知り合いで、人当たりの良さから誰とも分け隔てなく接する『良い奴』だ。
「下田はいいけど、まさかほぼ話したことない瀬古にまで言われるとは思わなかったなー。優しそうに見えて、意外と嫌味とか陰で言うタイプ?」
 人気者というのは本当にすごい。なんのためらいもなく、初会話の人とコミュニケーションを成立させることが出来る。
「いや、陰口とか言わないし。流石にあんなくしゃみを口も押さえずにされたら、前に座ってる人としてはたまらないよ」
 必死に平常を装って食い下がると、ニヤニヤした下田からツッコミが入る。
「え、『たまらない』ってなに?そういう性癖?」
「なわけないだろ。バカか。『勘弁して』って方の意味だって」
 僕は思わず大きい声を出してしまい、運悪く数学教師に捕まる。
「どうした瀬古」
「なんでもないです」
「そうは見えないけど。まぁ、せっかくだからついでに聞こう。瀬古、このプリントの一番、どう解く?」
 慌てて前を向いてプリントに目線を落とすと、基本的な無限級数の問題だった。かろうじて命拾いをした僕は、解答の流れを簡単に口頭で説明をした。
「そうだな。あとは、前を向いて解いたら完璧」
と数学教諭にチクリと刺されて、恥ずかしくなって縮こまっていると後ろから鈴木のささやき声が聞こえてきた。
「くしゃみで興奮は引くわ〜」
 声色に軽蔑の色がないことは僕にも分かった。

 くしゃみ事件以降、鈴木は何かと僕に話しかけてくるようになった。
 次の授業はなにか
 宿題はやったか
 わからない問題
 何かを聞かれることがほとんどだったけれど、それでも僕は人気者に認められたような気がして嬉しかった。
 鈴木の様子を見ながら、少しイジリ気味の毒づきをしても、
「瀬古って、チクチク刺してくるよな。しかも、言われて嫌な気分にならない絶妙なラインなのがムカつく」
と返してくれることが嬉しかった。
 僕はそこから自信を得て、他のクラスメイトとも上手くやれるようになって、クラスの中で好位置につくことが出来た。
 学校行事で率先して誰かと班を組むことはないけれど、支障なくどの班にも入れる奴ポジションを獲得した。素の状態で、緊張なく誰とでも接することが出来る様になった。心の中で鈴木に感謝をし始めた。

 しかし、鈴木にコミュニケーションに付き合って貰えるのはただ単に席が前後だからなのは分かっていたし、残念ながら席替えの日は来てしまった。
「目が悪くて前の席が良い人??」
 担任の先生の問いかけに、僕は手を上げた。すると、鈴木に聞かれた。
「瀬古、目悪いの?コンタクト?」
「いや、両目1.2だよ」
「じゃあどうして前が良いの?」
「え、結局、内職するよりも授業を漏らさず聴いたほうが良い気がするし、前のほうが質問しやすいから」
「なるほどー」
 次の瞬間、僕は驚くしかなかった。
「先生、私も前が良いです」
「鈴木さんもね。了解。じゃあ、今手上げた人、先に前の席のくじを引いてください」
 僕はびっくりしたまま、くじを引いて自席に戻った。新しい席は教卓の正面の席だった。そして、鈴木は隣だった。
「え、なんで前にしたの?」
「ん?瀬古の言うことが一理あるなぁって思って」
「なるほど」
 僕はそれ以上何を話せば良いのかわからなくて、新しい座席が教師の目が届きにくいところかどうかで一喜一憂するクラスメイトたちをよそ目に、物理の問題集を解くふりをした。単振動の運動方程式すらまともに立てられなかった。たぶん、動揺するくらいには嬉しかったんだと思う。そして、それから1年、高3の前半まで僕たちの席はずっと教卓前だった。

 席が変わらない席替えを繰り返し、季節は流れ、空の色は変わり、僕らは色々話した。将来の話や人間関係の話もするようになった。
 人気者にも僕が知り得ない苦悩があると知った。鈴木は他人から嫌われることが怖くて、深い付き合いができない八方美人にしかなれないことを悩んでいた。そして、僕にだけは何でも言えると言ってくれた。

 高3の後半には、自転車通学の僕が毎日早朝に最寄り駅まで鈴木を迎えに行って、一緒に勉強をするようになった。改札前で待つ僕の自転車のかごに自分のかばんを雑に放り込んでから大きく伸びをするのが、鈴木の日課になっていた。そして、僕が寝坊を繰り返したときには罰でクレープを奢らされたりもした。

 別に僕らはどちらからも告白はしていなかったから、交際だとは思っていなかった。鈴木には高3の前半まで恋人がいたし、僕は高2の頃に違う人に告白して玉砕していた。僕たちは付き合ってなんかいなかった。

 受験の本番が忍び寄ってくる高3の年末、何も隠していないはずの僕らは何故か見つかってしまった。
 ある日の放課後、僕が鈴木に『帰ろう(予備校の自習室に移動しよう)』とアイコンタクトをしたのが、クラスメイトに拾われてしまったのだ。
「あのさ、瀬古と鈴木って付き合ってるの?」
 もし、心臓に蓋があったら弾け飛んでいた。
「いや、付き合ってないよ」
 僕はありのままの僕たちの状態を説明した。
「けどさ、二人最近仲いいよね」
「まぁ、志望校一緒だし、受ける授業がかぶりまくりだからね」
 自分がどうして言い訳をしているのか分からなかった。
「そうだよな。これで付き合ってたらびっくりするよ。鈴木の歴代の彼氏からの瀬古は、さすがに一気にダウングレードすぎるしな」
 僕は長い夢から覚めた。
 そうだよな。
 身の程知らずだよな。
「当たり前じゃん。ないない。僕も別に鈴木はタイプじゃないし」
 言ってはいけないと思った瞬間にはもう、言葉が口を滑り出ていた。
「私だって面食いだから、瀬古なんてありえない」
 鈴木の声だけが聞こえてきた。
 僕は頭が真っ白で、もう何も見えなかった。おぼつかない足取りで教室を出て、下駄箱に走った。早く逃げ出したくて、3年間大切に履いてきた革靴のかかとを思いっきり踏んで走った。駐輪場に、走った。
 肩で白い息を吐きながら鞄を自転車のカゴに放り込んで、歯を食いしばった。すぐに鍵を開けて漕ぎ出せばよかったのに、出来なかった。心が痛かったし、願わくば鈴木に追いかけてきて欲しかった。
 そんな僕のセンチメンタルをよそに、運動部で鍛えられたスタミナの持ち主の鈴木は、僕が歯を食いしばり始めてすぐに追いついて来た。鈴木は少し息を乱しながら、いつものように自分の鞄を僕の鞄の上に投げ乗せた。
 普段のように、
『僕の鞄が潰れてるからー』
とは言えなかった。
 その空白になった僕のセリフを埋めるように鈴木が言った。
「帰ろ?」
「そうだね」
 僕たちはお互いに何も言わずに、校門を出ていつもとは反対の方向に曲がった。いつもよりも少し長く歩きたくて、自然と近くない方の駅に向かっていた。

 無言で歩いていた道半ば、鈴木が話を切り出してくれた。
「さっきはびっくりしたね」
「ほんとに」
「あいつ、ほんとにデリカシーないよね」
「そうだね……あのさ、映画見に行かない?」
 自分でも意味不明な提案だった。
 お互いの関係性とか、『タイプじゃない』と言ってしまったこととか、話さなきゃいけないことはたくさんあった。
 謝らなきゃいけなかった。
 好きだと言わなきゃいけなかった。
 けど、何をどう話せば良いのか分からなかった。
 気持ちはこうだった。
『何も話したくないけど、まだしばらく一緒にいたい』
 それだけだった。

 返事はすぐに貰えた。
「うん。いいよ」
 駅前のコンビニに自転車を停めて電車に乗った僕たちは、電車の中でスマホで上映期間中の映画を調べた。
「いや、それにしても映画だなんてこの時期の受験生がすることじゃないよな」
「ほんとだよ。瀬古、たまに意味分かんないことするから」
「よくおわかりで」
「どっから目線なのそれ」
「下から目線です。てか、その意味分かんないことについてくる鈴木も同類よ」
「腹立つなー」
 電車はすぐに映画館のある駅についた。その後見た映画の中身は何も覚えていない。お互いにろくに感想も言い合わずに、駅で「また明日」とだけ言って解散した。
 次の日からはいつも通りだった。お互いに踏み込んだことは何も言わず、ただ、続く毎日だけを見ていた。

 京都に受験で前泊したときには一緒に鴨南蛮そばを食べ、試験を終えてからは二人で鴨川のほとりを散歩した。試験後、僕は京都まで車で迎えに来た家族に荷物だけ預けて追い返した。母は怒り心頭だったけれど、父が察してなだめてくれた。
「荷物は?」
と合流した鈴木に聞かれて、
「宅配便で送った」
と嘘をついた。
「じゃあ、代わりにあげる」
と鈴木に手渡された色鮮やかなリュックを背負って歩いた、夕日の沈む鴨川はひどく心に沁みた。

 結局、僕らは第一志望の大学に落ちて浪人することになった。同じ予備校に入り、そこでも鈴木は一軍に属した。そもそも予備校は負け組の集う場所なのに一軍もクソもない、と勉強に専念した僕は鈴木と少し距離をとった。
 センター試験を終えてから、鈴木に誘われて予備校の周りを5時間近く散歩をした。二年目は名古屋の大学を受けるという僕の話を聞いて、鈴木もその大学にすると言った。なにかそれっぽい理由を並べてはいたけど、その大学じゃないといけない理由はどこにもないように感じた。

 僕からは言えない。取ってつけたような志望校変更の理由のその奥にあるものを鈴木が言ってくれない限り、僕たちの関係が発展することはあり得なかった。そんな受け身でしか居られない自分への苛立ちが募って、気持ちを言えない自分を浅はかに正当化するために鈴木の嫌なところを探した。

『人の言動に振り回され過ぎなんだよ』
『僕が東大を受けるって言ったら東大にするのかよ』
『僕が君のことを…』

 ブランコに座って鈴木の話を聞きながら、決して口に出せないことを考えながら意気地のない逡巡をしていた。結局、鈴木は僕と同じ大学を受験して、僕だけが合格した。

一緒に合格したら…

 ようやく少し勇気が湧き始めた僕の欲しかった言い訳が、泡沫のように静かに弾けた。

 鈴木に合格の連絡はしなかった。出来なかった。風の噂で、鈴木が第二志望の大学に合格したことを知った。お互いに、報告も祝福もしなかった。

 ただ隣にいて
 ただ一緒に沢山歩いて
 肝心なことは何一つ言えなかった。
 何も言えなかった。

名無しのあとがき

 『トムソーヤの冒険』の作者であるMark Twainは、次のような言葉を残している。

Twenty years from now you will be more disappointed by the things that you didn’t do than by the ones you did do.

(20年後、自分がしたことよりも、しなかったことに失望するだろう)

 僕の場合は残念ながら、失望は20年も待ってくれなかった。高校を卒業してから今まで、自分に対して数え切れないほどの失望をした。時間の不可逆性に心を焦がされ、悲しみに沈む夜を何度も過ごした。

 僕の失望は全て過去の自分に勇気がなかったことに帰着する。大事な人に自分の気持ちを伝えられないまま、突然やってくる別れに心を割いた。

どうして言ってくれなかったの

 家族にも、友人にも、恋人にも言われたことがある。わざわざ言わないで欲しい。自分が一番、『どうして言わなかったんだろう』と自分に失望しているのだから。

 勇気と言葉の不足によるすれ違いの物語は、この世界に溢れている。小説、エッセイ、映画、音楽。それらに触れる機会はいくらでもある。触れる度に『なんで伝えないんだよ』と歯がゆくなる。
 けれど、それは所詮、甲子園のライトスタンドから野次を飛ばすおっさんのようにくだらないものだ。自分で実際に打席に立った瞬間、何も見えなくなってしまう。本当にどうしたら良いのか分からなくなる。

 だから、次世代に自己失望を未然に防ぐ教訓を残すという意味では、『どうして言わなかったの』を書く意味はないと思う。仮に、教訓が潤滑に受け継がれて、誰もが自分の気持ちを勇気と言葉で打ち明けられるようになったとして、その世界に魅力はないと思う。不合理こそが有機的であり、人間を人間たらしめるものである。人間は、長所ではなく、短所で愛される。

 では、今回の七屋さんの企画の意味はどこにあるのか。それは、自分の中にある、失望とどう向き合うのかという姿勢の提示であると思う。

 他の参加者の文章がわからないのでなんとも言えないが、
どうして言ってくれなかったの
がテーマである以上、何かしら人間関係のすれ違いが絡むはずだ。登場人物が全員、勇気と言葉を持っていれば、より実りある展開になったであろう物語が並ぶのではないだろうか。

 物語はなにもないところから生まれない。
 今回のテーマであれば、なにかしら、書き手の人生の中にあるすれ違いや失望の経験から生まれる匂いを纏っている思う。そこにこそ、この企画の意味があると思う。

 過去の自分への失望を放置しても、それは真綿のように自分の首を絞め続けるだけだ。逃げずに対決して作品に昇華させることに価値があると僕は考える。

Life imitates Art,that Life in fact is the mirror,and Art is the reality.

人生は芸術を模倣する。
つまり、人生とは実際には鏡で、芸術こそが現実なのだ。

- Oscar Wilde

 相変わらず僕には勇気が足りない。過去の失望と向き合う勇気は持てるようになったけれど、この作品を自分で出すほどの勇気はまだない。だからこうして七屋さんからの代理投稿という形で参加をお願いした。芸術の模倣に力を貸してくれた七屋糸さんには感謝している。

#どうして言ってくれなかったの

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