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「みんな仲良く」は祈りの言葉

理想と現実

ピューロランドで聞く「みんな仲良く」という言葉、その言葉が織り込まれたKawaii歌舞伎のストーリーに接する一方で、そんなのは絵に描いた餅だと言わんばかりの殺伐とした現実を味わうことが多く、悶々としてこのnoteに書き散らしてきた。
理想なんだから、みんなで理想を目指すべきだよ、というナイーブな感覚もあったが、所詮他人は他人で、何か変えられるものではない。
自分自身だって、あの人やばいから、近づかないでおこうみたいなことはわりとあるし、誰とでも仲良くするわけではない。差別はいけないというタテマエと、やばい人とはかかわらないでおくという処世術は、誰しもが持っているのではなかと思う。
仕方がない。現実に鬼ゴロウのような、積年の因縁がある人が、自分とその周りに影響を及ぼし合うところまで近づいて来れば、誰しも無警戒ではいられないのではないだろうか。だからこそ、大人の世界では、お互い傷つけあわない距離感を保つようにするし、綺麗事のタテマエで表面的な付き合いをする。
京都人の「ぶぶ漬け」が、よく知られているが、そうやって遠ざけたい人との距離を調整するのは、誰もがやっていることで程度の差でしかないだろう。むしろ、代々お金持ちや貴族階級の皆さんの方がそういうのはうまい印象がある。

格差社会での「みんな仲良く」の欺瞞

現実には格差がある。お金や職業だけではなく人に好まれる容姿をしているかどうかが、友達が多くできるかにも関係してくる。どこまでが努力の成果で、どこまでが持って生まれたものかは、判然としない。それでも、恵まれない状況でも誰も助けの手は差し伸べられず、自己責任として、寒風吹きすさぶ中で一人で耐えている人が多くいる。そんな人たちに「みんな仲良く」と言われても、欺瞞としか感じないだろう。この現実を説明しない、理想主義的な言葉の解釈を、世の中を見渡して延々と考えても、答えは出てこない。

戦後社会と「みんな仲良く」

サンリオで「みんな仲良く」が掲げられているのは、創業者いちごの王さまの甲府空襲の体験であることはよく知られている。「なんで、人と人が憎しみ合わないといけないのか」という、いちごの王さまが感じたやるせない気持ちは、当時を生きた人は誰もが経験したであろう心情であろう。そして、その心情は戦後の日本国憲法に結実し、戦後民主主義と言われる新たな時代の背景となったと言えるだろう。
しかし、その理想主義の裏で、戦争がなくなるどころか、局地化・複雑化し、東西の対立から、イスラム社会と西洋社会の摩擦の時代となり、国際金融資本と搾取される一般人のような構図にもなっている。SNSをみても、フェミニズムや表現規制をめぐって、多くの人がいがみ合っているのをよく目にする。被害者ポジションを競って取合い、殴り合っている。平和などどこにもないようにすら思える。

「みんな仲良く」という祈りの言葉

いつもトゲトゲしたことを書いている人とは、自ずと距離をとりたくなる。仲良くなんてできるものではない。
しかし、そういう人がいるからこそ、「落としどころ」みたいなものが徐々に形成されていき、人々の認識も時代に合わせて徐々に変わっていくものだ。常識はそうやって変わってきたし、これからも変わっていくのだろう。

現実には存在しない「みんな仲良く」を、繰り返し聞くことに、どんな意味があるか。私の出した回答は「祈り」である。神仏に対する祈願という本来の意味と若干ずれるかもしれないが、本質的には同じではないかと思う。つまり、祈りは自分自身の中で閉じている、心的な行為である。自分の操作可能な意識が、心の奥底に何かを意思を伝える行為が「祈り」だ。心の奥底を通じて、神や仏と通じ合っていると信じることは、信仰の世界の話であるので、そこまで踏み込まない。「みんな仲良く」を聞くとき、自分の表面的な心は、そういう平和な世界は素晴らしいものと感じている。そして、それが実現されれば良いな、と願う。その願いは、心の奥底に働きかけられ、信仰の世界を通して神仏に届く(こともある)。つまり、宗教的な祈りと、本質的に同じではないかと思う理由はここにある。

ピューロクリスマス

現在ピューロランドで開催されている、ミュージカルショー、ピューロクリスマス。このクライマックスのところは、教会での礼拝の影響を色濃く反映していると思う。「友達のため笑顔のために思いを紡ぐ日がクリスマス 優しい心放つ光は世界で一番のギフト」という歌詞に沿って演奏される音楽は、パイプオルガンの教会音楽そのものではないだろうか。
クリスマスは、元来キリスト教の行事であったが、そのキリスト教色を薄め、代わりにサンリオ的な価値観を入れ込んでショーに仕上げたものが、ピューロクリスマスだと言ってよいのではないか。
宗派が異なるが、結局は「祈り」である。この歌詞がまさに、そのことを言っている。「思いを紡ぐ」という行為は「祈り」そのものではないか。

祈りによる浄化作用

ピューロランドに行ったあと、心が浄化された感覚に気づくことがよくある。日常の中で、嫌なことは多く起きるし、他人への猜疑心が止むことはない。しかし、そういう負の感情は、ピューロランドに行った後はしばらく忘れている気がする。もちろん、数日経ったら戻るのだが。私はその、自分の心に起きる変化が楽しくて、ピューロに頻繁に通っているのだろうと思う。

なんでそういうことが起きるかというと、「祈り」をさせられるからだろうと思う。祈りによって、変えられるのは、自分自身の心のみである。自分の心が変われば、周りの見え方が変わるし、自分の周りの環境もそれによって変わるし、他人が変わることもある。これは不思議なものである。

ピューロクリスマスは、何度見ても良いので、皆さんもぜひ何度も見てほしい。

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