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自己犠牲とサンリオの物語

コロナ禍の下で明らかになった「社会は守ってくれない」こと

コロナで社会活動がシュリンクし、自粛を強要する空気が支配して久しい。1年くらい前あたりからそれに反発して動き出す人も多かったけど、表立って抗議活動なんかをするような人はやはり今も多くはない。多くの人は仕方のないこととして受け入れ、他人の目を気にしながらマスクは常につけはしているけれど、構わずに遊びに行くことも増え、淡々と日常をとりもどしつつある人が多い。

若い世代は重症化しないということがわかっていながら、YOSHIKIのように「世の中のために、周りの人のために」という思いでワクチンを接種した人が多いだろう。しかし現実には、ワクチンが感染拡大をとどめてくれた程度は限定的で、デルタ株の第5波が来て、さらに今年はオミクロン株が全盛を迎え、ようやくピークを脱しつつある。周りの人のためにつらい副反応を我慢したのに、さらに3回目が必要と言われるにあたり、あの2回の辛い経験はなんだったのだと思った人も少なくないだろう。

社会は、いざというとき、国は(世間は)自分を守ってくれる、という共同幻想によって担保されているというところがある。しかし、社会が実はそうはなっていないということを、明らかにしたのがこの2年のコロナ禍だったと思う。厳密に言うと、社会が守ってくれたといえる場合も多々あり、支援金制度や休業補償金など、様々あったし、それで恩恵を受けた人も多い。それでも、そこから漏れ出て、今も苦境にいる人は今もたくさんいる。
その漏れ出た人に当たるのが、若い世代だろう。
学生時代に経験しておくべき「体験」を奪われた。授業はリモートになり、文化祭や修学旅行などの学校行事は中止、友達を作り交流する機会が極端に減った。バイトしようにもできない状況も多かった。就職して、キャリアパスを定めて働いて来たけど、変更を余儀なくされた人も多い。
いろんな無形の損失を若い世代は被っていながら、それを当然視されていることにより、若い世代と社会に分断が発生しているというのは、例えば白饅頭氏が指摘している通りだろう。

守ってくれない社会には身を捧げない

かつて、戦争の惨禍を経験したわが国は、戦後「身捨つるほどの祖国はありや」という言葉で表されるように、国への献身という行為自体が否定的に考えられるようになった。国を守るために様々な犠牲を払った挙句、あれは間違った戦争だったという考えが常識になった。社会の常識がそれだけ戦前・戦後で変わったけれども、まだ戦後の昭和の社会は、「国が国民を守る」という常識では動いていたのではないかと思う。国のあり方をめぐって、左右の衝突が激しかったのが昭和の時代だったが、思想は違っても、国が国民を守るべきという矜持を持ってはいたのではないかと思う。
それが崩れてきたのは、平成になってからだろう。バブルの崩壊で経済が崩れた。そして、就職氷河期が出現し、それに伴い「ロストジェネレーション」が生み出された。社会は、この世代を守らなかったと言って良いだろう。
ただ、その後に景気は持ちなおしたり、なんとか就職できたりして、氷河期世代の多くはなんとか生き残った。ただし、家庭を持って順調な人生を送っている人の割合はたぶん少ない。そして、この世代の多くの人々は、いざとなったら社会は守ってくれない、という意識を持つようになった。氷河期世代のおじさんは「戦争帰りのようだ」と評されているが、そういった諦め感を抱く者が多かった。

氷河期世代が終わり、ゆとり世代に移り、持ち直した時代が平成の後半だったが、令和になって長引くコロナ禍により、見えない形で犠牲を強いられた若い世代もまた、氷河期世代的な厭世観をもつようになったかもしれない。共通しているのは、社会は守ってくれない(くれなかった)という意識ではないだろうか。これは、今後の社会で確実な形で効いてくるように思う。つまり、そんな社会のために自分を犠牲にすることはしない、という前提が共有されるということだ。

自己犠牲を描くサンリオの物語

コロナ前まで、「想い出を売る店」が、フェアリーランドシアターで上演されていた。私も何度も見に行った。このストーリーの肝は、実は資産家の息子達に妬みによって壊された「ルパートのバイオリン」のかどを、その兄のラルゴをかばって、親友のグリッサが代わりに罪を負い、町から追い出されてしまうという「想い出」である。そして、グリッサはよその街に行ってバイオリン職人として一人前になり、ラルゴとルパートの兄弟の復活をとりもつという、普通ではありえない物語になっている。しかし、グリッサのこういった行動は、肯定的に捉えられているのだろう。ある種の自己犠牲の賛美である。

マイメロディの星と花の伝説」でも、自己犠牲の場面はあった。3日間の期限の中で、檻に閉じ込められて身動きができずにフローラの元に戻れなくなったアーサーのために、妖精のルルが命と引き換えに檻を壊し、アーサーを助け出すという場面。アーサーはやめろというけども、結局はルルの献身のおかげで助かる。

こういった、自分を犠牲にして誰かのためになる行為は、美しく描かれることが多い。儚さのために生じる美しさではあるが、現実にそれを求めて良いものなのか、ということを考える時代になったかもしれない。現実には信頼関係が強い人間関係の場合は、自己犠牲や献身というのはあり得ることかもしれないが、徐々にそれは廃れて行っていく流れになっているのではないだろうか。

戦中は、国と個人の間で自己犠牲を強いる風潮のために、多くの若者が戦争に赴き、あるいは自ら特攻に志願し、命を失った。戦後は、国と個人の間では、そのような関係はなくなったが、組織や社会のために犠牲を強いる風潮はあったし、個人と個人の間の関係では普通であったし、サンリオの物語の中ですらも根強く残った。

やなせたかし氏が言っていたように、「正義」とされるものは立場によって変わるものであり、変わらない「正義」もある。戦前・戦後のように時代が変わるとまた、「正義」は変わってきた。だから、自己犠牲を正しいことと評価しない時代はすぐそこまできているかもしれない。
コロナ禍の時代を経たことで、「社会は守ってくれない」ことが多くの若い世代の常識になってきたようにみえる。つまり、自分が犠牲になってまで、何か人のために尽くすというのは、どうなのか、というのが問われる時代になったのではないか。時代に適合した模範解答はあり得るが、正解というのはないと思う。この時代に、サンリオの物語はどう変わっていくのか見ていきたいと思う。

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