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8月に思う「みんな仲良く」

8月になると、毎年戦争のことを想起させられる。8月6日広島、9日長崎、そして15日終戦。この3連続のイベントに合わせて、戦争にまつわるニュースや記事、映像などがたくさんメディアやSNSから流れてくる。
サンリオを好きになってからは、いちご新聞の8月号に、いちごの王さまが自身の戦争体験を書き、平和の大切さを説くというのもまた、毎年のことだ。

記事にあるように、戦争をなくすためにサンリオを創業したというのは、ある一面で事実だろうけども、いちごの王さまなりのしたたかたなストーリーなのだと思う。サンリオ社は元は「山梨シルクセンター」であり、山梨の絹織物やぶどう酒、水晶などの特産品を扱う会社としてスタートした。しかし、内藤ルネ氏に頼んだいちご柄のグッズが売れたことで、「かわいい」製品の開発にシフトして行って成功した。ついでに言うと、「山梨の王様」の語呂でつけられた「サンリオ」は、いつのまにか「聖なる河San Rio」ということにしてしまった。ただし、聖なる河の流れという意味も込められてもいたといえばそれも嘘ではないかもしれない。物事はいつも多面的で裏と表がある。

さて、戦争をなくすという理念に共感しない人はあまりいないと思うし、いちごの王さまの語る山梨空襲の話は、戦時の貴重な証言なので、歴史的価値があるものだ。しかし、サンリオが戦争をなくすために力を発揮できたかというと、やはり実際には無力そのものだと言える。昭和に生まれ、既に世界にも進出したグローバル企業として多少の影響力はあり、キティさんが国連に取り入ることは成功し、SDGsの広報役を担うことはできたけども、やはり名誉職どまりであり、戦争を止められるほどの力は持たせてもらえていない。ウクライナでの戦争が始まってもう半年経つが、戦闘は止まることはなく、今も続いている。

「かわいい」というのは、人間を癒し、勇気づけるある種の力があるのは間違いない。ただし、それが人と人が憎しみ合い、互いの存亡を賭けて戦っている状況では、力を発揮し得ない。「優しさ」も「思いやり」もサンリオ社が推す大事なテーマであり、普遍的に重要な価値観であるが、同様だ。戦争や戦争に至る前段階で、戦争を止めるために役に立つのは、残念ながら武力つまり軍事力でしかない。
ただし、軍事力だけではなく、情報戦つまりプロパガンダ合戦という様相もあるし、道徳的なただしさを認知させるという政治戦という様相もある。特に、軍事力の行使前につばぜり合いしている状況では、この種の情報戦・政治戦は絶えず繰り広げられている。日本が平和憲法の時代になり、実質的に米国の庇護下に国を運営している状況では、その枠から出ないで悪代官に媚びる越後屋のように、米国の機嫌を損ねないように上納金を渡しながら、生きながらえるしかない。

そのような国のあり方をよしとしなかった真性の保守は、今は生き絶えてしまったのかもしれない。少なくとも政治家にはほぼ見当たらなくなった。三島由紀夫は市ヶ谷駐屯地で訴えた檄で、「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。」と訴えたが、実質的にこの通りになっている。軍事だけでなく、社会制度も文化も社会習俗もアメリカのものが絶えず輸入され、旧来の日本のものと魔合体(いいとこどり)して現れたのが、「失われた30年」、「氷河期世代」だったのだと思う。そしてアメリカの顔色を伺わないとなにもできない政治と、少子高齢化社会が残された。

戦争がない時代が続いたのは、社会全体としては幸せなことではあったと思う。ただし、その幸せも平等に分配はされていないし、経済的な豊かさ、社会的な豊かさは偏在している。それをなんとかしようとするのは、結局は個人の努力に帰されている。国として他国と表面上争うことはなくなったが、国としてのまとまりがそもそも希薄になり、個人単位の生存競争の時代になったようにみえる。露骨な暴力性は忌み嫌われるが、オブラートに包んだ暴力性、つまり経済力やポリコレなど依然力をもっている。

そんな時代に「みんな仲良く」というサンリオ社が一貫して掲げる理念が、なお一層、深い意味を持ってくる。これからの時代の指導原理ですらあると思う。
しかし、暴力そのものと、形を変えた暴力性が支配してる世の中で、皆が幸せに生きることは難しい。実質の伴わない形での空虚な「みんな仲良く」が跋扈する。表面上の「みんな仲良く」ばかりが影響力をもち、実質を伴っていな場合がとても多い。平和を考えるというのも、そんな簡単なことではないと思いながら、いつも8月が過ぎて行く。


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