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「みんな仲良く」の旗は掲げ続けられるか

サンリオの旗印「みんな仲良く」と、みんなの動向

このnoteでサンリオが唱える「みんな仲良く」という理念について、何度か考察してきた。しかし、サンリオが好きな人たちの界隈を見渡していると、どうもこの理念を受け入れていない人が、むしろ大部分なのではないかという気がしている。
まず、つき合う人は入口の段階でシビアに選ばれるので、合わなさそうな人と友達になることはない。さらに、知り合った人とも、自分と合わなくなると、交友関係を簡単に切ってしまう人が多い(私は切られてしまうことが時々ある)。特定の誰かがそうだというのではなく、全体的に誰もがそういう傾向がある。これはSNSが全盛の現代の特性なのかもしれない。

「みんな仲良く」と迷惑な人の出禁

ピューロオタク界隈で評判が良くない人がいる。その人に対する「注意喚起」として個別のDMを公開したツイートを放った人がおり、何百ものリツイートが付いた。同時に、こんな被害を受けたという告発をする人も現れ、ちょっとした炎上事件が少し前にあった。ピューロランドにも、その人についての報告をしたことを知らせる人も見られた。明らかに、その人をピューロランドから排除する方向に、多くの人が向いているのが観測された。
むろん、その人がやっていた迷惑な行為は、確かに一部の人には迷惑なものだっただろうし、被害の告発が真実であれば、まずいものではあると思う。ただし、刑法犯になるかどうかは微妙なラインではある事案ではあったと思う。現にその人が逮捕はおろか、事情聴取もされた様子はない。

さて、この人を出禁にすることは「みんな仲良く」の理念と両立し得るのだろうか?というのが、私の問いである。もちろん、迷惑行為をする人は、近くにいるとかなわないのはわかる。
しかし、その対象は容易に拡大し得るのではないかという懸念がある。例えば、いかにも不審な人、小汚い格好の人、臭い人、うるさい人、列に並ばないで横から入る人、転売のためにグッズを大量に買う人、キャラに触れる人、来場者の顔も写った映像を上げる人、等々。言えばきりがないが、誰かが誰か他人のことを「迷惑」「害悪」と言って告発する光景は、ピューロ常連の皆さんの話を見聞きしても、もはや日常茶飯事だ。
それで、その迷惑な人が排除されれば、問題は解決なのかというと、それはうではないだろうと思う。むしろ、もっと大きな問題に発展し得るものだ。

電車内での無差別殺傷事件と「みんな仲良く」

電車の中で、テロ行為をする者がある。8月6日に小田急線で事件があり、10月31日には京王線で事件があった。さらに11月8日には九州新幹線で放火未遂事件もあった。これらの事件は、社会に衝撃を与えたし、これからも模倣犯が現れる懸念は大きい。
犯人が悪いというのは前提にあるにしても、社会の側が一人の青年を犯罪をするところまで追い詰めた、つまり安息できる居場所を与えなかったとは言えないか、というのは顧みられているとは思う。これは、この事件に限ることではない。
人間は誰しも、幸福を求めて生きている。その人を、社会から排除することで、そのコミュニティの治安は一時的に保たれる。しかし、そこで排除された不幸な人を一人作り出してしまう。
これは、懲役の刑期を終えた人を社会でどう受け入れるのか、という問題とも同様である。そんな人は、一生刑務所に閉じ込めておくべきだ、という世論が、いまの社会では強いように感じるが、それで良いのだろうか。
そういう、仲間はずれにされてる人を受け入れてくれる社会があれば、その人も道を踏み外さなくて済んだのではないか、ということは常に考えるべきことだと思う。

プリキュアと「みんな仲良く」

1月31日に放送されたプリキュアが、SNS上で話題となっていた。例えば、このまとめ参照。私は、見ていないが、いろんな人が論評しているので知った。
メッセージとしては「自分を犠牲にしてまで、自分を搾取しようとする人間を助けなくても良い」というものだったようだ。ただし、これをさらに単純化して、
・相手のことが嫌だったら助けなくていい
・気に入らないやつは助けなくていい、許さなくていい

というメッセージと受け止める人が何人も観測された。

やはり、今の時代はこれが流れなのかもしれない。そうすると、もしかして、サンリオの「みんな仲良く」は、時代に抗う概念なのかもしれないと思う。
少なくとも、昭和の時代の遺物ではある。ただし、いちごの王さまの戦争体験を経て、生み出された、血の滲んだ旗でもある。その旗をこれから守っていくか捨ててしまうのかは、私たち以降の世代にかかっている。なので、若い人はよく考えてほしいと思っている。

助けないということは、自業自得であれ苦境にいる人を見捨てることである。もちろん、助けることにはコストがかかる。時間も労力も取られるし、助ける側に被害が及ぶことも少なくない。だったら、切り捨ててしまっていいのか、ということである。

そんな迷惑な存在であっても、キティさんなら助けるんじゃない、アンパンマンなら助けるんじゃないか、という期待があるのは、私が古いタイプの人間だからなのだろうか。

排除されるホームレス

迷惑な人は、周りから見捨てられるので、困窮する方向にどうしても行ってしまう。例えば、ホームレスのような存在だ。行政の施策でなんとかすべき、ということは言える。ただ、その行政の施策というのは、多くの一般人の意向が反映されるものである。行政の中の人はいつも、マスコミにどう報道されるかや、世の中の多数派がどう考えるかを気にしている。
例えば、排除アートであっても、一般人がホームレスを迷惑に思うからこそ、行政の手で体良く作られた排除のためのツールである。これが作られるのが、現代社会なのだ。これでいいのか。

多摩センターの駅を降りると、ときどき、Big Issueを売っているおじさんがいる。道ゆくほとんどの人は無視をしてゆく。ピューロランドに向かう人たちもだ。私は、急いでいないときは、1部だけ買うことにしている。ほんの小さな「みんな仲良く」の実践のつもりだ。せめて、社会に向かって、生活を立て直そうとしている人は、大したことはできなくても、少しは応援したいと思う。


「みんな仲良く」の旗はこれからも掲げ続けられるか

サンリオは「みんな仲良く」を言い続けている。ピューロランドのショーの端々にそのメッセージが込められているし、スタッフの皆さんのホスピタリティからもそれは感じる。これは素晴らしいことだ。
実際にも、誰かを排除するようなことはしていない(と思う)。しかし、誰かを排除すべき、みんなが迷惑している、という一般人の意見が強くなると対応をせざるを得なくなるかもしれない。

「みんな仲良く」の旗を掲げ続けることは、迷惑な人は排除しても良いという、時代の流れに逆らうことになるかもしれない、というのが私が抱いている危惧である。しかし、もしサンリオが「みんな仲良く」の旗を、自ら降ろすような方向に舵を切るなら、あるいは旗だけ掲げながら実態が伴わない運営に舵を切るなら、私はピューロランドには近寄らなくなると思う。そうならないことを切に願っている。

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