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いっと待っちゃんせ~詠もごちゃって~鶴丸城

 ・春浅し鶴丸と言ふ城ありて

 鹿児島に住んでいたのは6年のエセ鹿児島県人ですが、やはり詠みたいと乱入します!と勢い込んだわりには🙄
 因みに、鹿児島では、鹿児島城というより鶴丸城と呼ぶのが一般的のようです😊

築城時72万石の大名であった鹿児島城は、天守もなければ重層の櫓もない、一見 “華やかさ” に欠けた城と感じてしまいますが……それには、薩摩独自の城造りの思想が!

慶長20・元和元年(1615)に幕府によって定められた「一国一城令」では、原則、1つの国(大名の領国、藩のこと)に対して一城のみというルールが定められました。拠点となる城の周りにいくつかの支城を置き、各城が連携して統治する……それまでの体制を解体したのです。
この一国一城令で鹿児島城のみとなった薩摩藩では、独自の統治スタイルを生み出しました。「外城制(とじょうせい)」と呼ばれる考え方は、廃止となった城下の家臣を「城」ではなく「麓(ふもと)」と称された武家集落にそのまま住まわせ、軍事組織を残したのです。支配拠点を110余の麓(外城)に分けて防衛・領国支配を行いました。
むろん徳川幕府への配慮もあったでしょうが、「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」という薩摩独自の城造り思想が、天守も櫓も必要ない鹿児島城を誕生させたのかもしれませんね!

お城ファンより

 一度だけ、鶴丸城跡に行ったことがあります。鹿児島の前は大阪に住んでいたので城と言えば大阪城のイメージしかなくて城跡という石碑の他は石垣が残るのみで当時は特別な感想もなく…。
今こうして、Wikipediaなどを読むうちに、立派な門以外に天守閣も櫓もない平山城ではあったけれど、そこには藩主独自の考えもあったのだと思えてきます。

1837年以前の御楼門

 この御楼門は、復元されてとても立派になっているようです。

 残る城もわずかとなりましたが、楽しんでいただいてますか?
お立ち寄りくださりありがとうございました!

 

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