★2014-2016年の頃の活動を、振り返って。
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2014-2016年の頃の活動を、振り返って。
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2017年に喫茶茶会記で「In The Zone」(セッション企画)を始める以前の2014-2016年の3年間は主催企画を年4回ずつ行っていた。
2014「学校/東西幽霊/絵本/夢現」
2015「不思議の国のアリス」
2016「四季」
年毎にコンセプトを組み、年内シリーズで毎回出演者と会場を変えて、『綜合藝術茶房喫茶茶会記(四谷三丁目)』『Difference Engine(水道橋)』『parabolica-bis(浅草橋)』『アサヒ・アートスクエア(浅草)』『Bacecamp(六本木)』『楽道庵(神田)』『サラヴァ東京(渋谷)』『キッド・アイラック・アート・ホール(明大前)』とさまざまな場所で企画を行っていた。(楽道庵以外は現在閉店している)
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振り返ると当時(24歳の頃)は、企画することについて何のノウハウもない手探り状態ながら色々"試す"をやっている時期だった。コンテンポラリーダンスや音楽、アート、映像など他ジャンルの作品や表現者に興味がありながらも、タップダンスの技術経験しかない自分が、所謂タップの劇場やライブではないパフォーマンスがやりたくて、劇場やライブハウスではない会場と異業種の表現者との創作とを様々な環境や設定を実践する機会を自らに、作り出していた。
23歳ではじめて企画を行ったときに、自分自身がプレイヤー(/パフォーマー)であることと、企画/演出として場や人に関わることは(責任や立場が)、全然違うことなんだとわかった。パフォーマンスがいくら上達しても、企画することを経験していかないと企画(自分のやりたいこと)は、やれないんだと気づいたとき、企画することを修行と覚悟して翌年には、年4回の企画することを決めた。
結果的にはそのやり方が3年間続いたけど正直この2014-2016年が一番大変だった気がする。やってみたいことを自ら主催、制作しながら公演企画の経験は積み上がるも、何か特定の分野の表現でもない作品(/パフォーマンス)が誰に評価されたり受賞するわけでもないでもないし(そもそもコンペティションに出してる訳でもないが)、このやり方を続けるのはもう無理だなと、少し疲れ始めていた27歳の頃。
その翌年2017年に、以前よりお世話になっていた喫茶茶会記の店主福地史人さんに、集客を気にせず表現に集中できる企画を毎月やらせて頂けないかと相談した。福地店主がそれを快諾くださり、今年は生きていける、と自分の心が息を吹き返した気がした。その瞬間こんな気持ちを味わって表現者は自分だけではないかもしれないなと感じ、当初は毎月ソロ公演を行うつもりだったが、この企画と場所を他の表現者と共有する時間にしようと思い、異なる表現者と1対1で60分間の場を、「観客に向けた表現ではない。」という文言から始まるコンセプトのセッション企画「In The Zone」をスタートした。
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はじめての企画で自分が上手くいかなかった理由の大半は、自分のやりたい(100%)を相手に押し付けていたからだなと感じた。正直相手のことちゃんと知らなかったし、そもそも当時は自分の作品演出をするうえで相手を知らないといけないと思ってなかった。自分の経験の少なさからも、異なるジャンルの経験の違う人たちの言語や感覚は全然わからなかったし、どう言葉にして伝えればいいのかわからなかった。
自分のことばかりで(経験不足故に不安で余裕がなかっただったと思うんだけど)、他者への共感能力が薄かったなと思う。企画を失敗してはじめて気づいたし、作品(/パフォーマンス)の良し悪しはもちろん大事だけど、企画者としては一緒にやる人のことは作品(/自分のやりたい)よりも大事に考えないといけないなと思った。
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2014年から2016年時期の経験は、その後の自分の活動において大きな下地となっている。24-26歳時の自分はどの現場でも最年少で、業界や表現分野は異なれど、さまざまな経験を積んできている先輩表現者たちの知恵や力をたくさんお借りした。いまもたまにご一緒することがある方々には当時の公演にインパクト感じ未だに覚えていて評価くださる方々がいることも少なからずあり、やってて良かったなと思う。
(昔のガムシャラ時の公演は、自分にとっては恥ずかしく苦い体験の記憶も多いけど)
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