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「いま」にある思い ~特別性の癒し~


学校に行きたくない子どもたち

小学校で、不登校児童の支援を担当する教員の友人がいます。
正確には「登校渋りをしている子どもたち」の支援。

友人が勤務する小学校でも、学校へ行きたくない子どもたちがとても多いのだそうです。
なんとか校門はくぐるけど、そのあとやっぱり教室には入れない。

友人は、そういう小学生たちを専門に支援しています。

表向き、こうした子たちのゴールは教室への復帰です。
一日も早く、教室に戻ってもらう。

しかし私の友人は、その「ゴール設定」が釈然としないと言います。

ひとくちに「不登校」といっても、いろいろな子どもたちがいる。
でも共通しているのは、いま、かれらになにかの思いがあるということ。
その思いをすくい取り、きちんと受け止める。

それがまず、なにをさしおいてもいちばんのはずだよね?

友人はそう言うのです。

教室復帰が「ゴール」だなんて、単純には言い切れない。
今日、いま、もっと大切なことがあるんじゃないか。

毎日子どもたちに接していて、そう実感すると話していました。

それを聞いていて、とても共感しました。

「いま」そこにいる相手の思いを、受け止める。
それは、とてもパワフルな癒しになると思うのです。

親と子の特別性

私には息子がひとりいます。
彼が生まれて以来、私は息子のことをとても大切に思ってきました。

しかし私たちは、ACIMが「特別性」と呼ぶ関係性に、知らず知らずのうちに囚われているものです。

ACIMを真剣に学ぶようになった私は、それに少なからずの衝撃を受けました。

親のわが子に対する愛情の多くは、本物でしょう。
しかし、その本物だったはずの愛が特別性へと歪められることはあり得ます。

誤解を恐れずに言えば、人間としてこの世に生を受けた以上、それは避けられないのかもしれません。
もちろん私自身も、例外ではありません。

この特別性という誤りは責められるべきものではなく、訂正されるものだというのがACIMの基本的な立場です。

わが子だけは「特別」

たとえば親たちは、学校などの集団において、すべての子どもたちが同じように扱われるべきだと考えているかもしれません。
えこひいきなどなく、どの子も平等に扱われるのが当然のはずです。

しかし、そういう親たちの心の中には

自分の子どもは例外。
他の子どもたちより、うちの子だけは
少しでも良い扱いを受けてほしい。

こんな願望が隠れていたりします。

私自身、自分がこの矛盾した願望をもっていたことにとても驚きました。
そして、それをありのままに認めるのに長い時間がかかりました。
さらには、それを癒す(訂正する)のも、とても難しいと感じました。

親なら誰もが「わが子がいちばんかわいい」と思っているはず。
それはしかたのないことだ。
それを変えるなんて、できるはずがない。
わが子の特別さを望むのは、親として当たり前。

こんな考えが、どうしても心を離れません。

しかし「自分の子だけは特別であってほしい」という願望があると、それがまず親自身を苦しめることになります。

「特別な」子どもなど、実際には存在しないのですから。

「いま」の思いを受け入れる

私の息子には発達障害があります。
彼は、私が望むかたちではない「特別な」子どもでした。

他の子と違うという点で、彼はたしかに「特別」です。
しかし私が望む「わが子の特別さ」は、そのようなものではありませんでした。
露骨にいえば、「他の子たちよりなにかが”優れている”」のが私にとっての「特別さ」だったのです。

息子の「特別さ」は、この私の願望からみれば完全に逆です。
自分の願望が粉砕された私は、苦痛を味わいました。

私自身、はじめは息子が自分の苦しみの原因だと信じていました。
でも、それは真実ではありません。

そんななかで私は、私自身の、そして息子の「いま」の思いを受け入れることを学びはじめました。

「いま」、目の前で、彼はなにを言おうとしているのか。
「いま」、自分はほんとうにはなにを望んでいるのか。

この実践には、真摯な謙虚さが必要です。
そのためには、ACIMワークブックのレッスン45(「神とは、私が思考している心」〈*〉)に指示されているような実践を繰り返す必要があるでしょう。

〈*〉原題は「God is the Mind with which I think」。
現在日本語で流通しているACIMすべてに言えることですが、
翻訳者によって様々な訳がなされています。

相手に対する怒り(あるいは恐れ)が正当だと考えられているあいだ、われわれが謙虚になることはないと思います。
完全に相手を赦している必要はありませんが、少なくとも、赦そうという意欲だけでもあることが重要でしょう。

謙虚に相手の「いま」の思いに集中していると、必ずカチッとはまるような「そうか、そうなんだね」というような瞬間が訪れます。
人によっては心がフッと軽くなったり、広がる感じ、温かさなどを感じるかもしれません。
そうした瞬間には、非常に大きな喜びがあるものです。
(ACIMがいう「つながり合い(joining)」だと思っています)

やがて、このようにして「いま」の思いを受け取ることの喜びが、「特別さ」への願望に対する癒しになることが経験的にわかってきました。

息子や私自身の「いま」そのときの本心に向き合える、大きな喜び。
その方が、「特別さ」への願望よりもはるかに充足感があるのです。

ところで、身近な人々の「いま」の思いに心を向ける決断するときには、必ず自分自身を含めてください。

私たちは、ついつい自分を忘れがちです。
そして自分自身を忘れると、「いま」の思いを受け取る喜びは大きく損なわれます。

欠乏感の埋め合わせ

わが子は、特別であってほしい。
他の子たちとは違う、きらりと輝くものがあってほしい。

私にとってこの願望は、長い間当然のように思えていました。

でも徐々に、それが自分の中の漠然とした欠乏感を埋め合わせようとする欲求からきていることがみえてきました。

自分にとっての”特別な”存在(息子)が、特別な存在として特別扱いを受ける。
そうすれば、漠然とした自分のなかの虚しさが埋められるに違いない。

私はそんなふうに考えていたのです。

言葉にならない漠とした、でもしっかりと心のなかに巣食っている欠乏感。
その虚しさは、身近な人たち(自分自身も含めて)の「いま」の思いに目を向けることで癒されてゆくのだと思います。

「特別さ」によるうわべの満足感での埋め合わせは一時的です。
そのときは満たされたような気がしますが、やがてその感覚は消えてしまう。
そして再び、なんとかして自分を満たそうと躍起になるのです。

そのような繰り返しより、「いま」ここに、目の前にいるの人のほんとうの思いに触れるほうが、はるかに満たされる経験だと思います。
とはいえその体験も、時とともに過ぎ去ります。
しかしその記憶は深い満足感を伴っており、色褪せないものです。

いつも目の前の人の「いま」の思いを受け入れることができれば、理想的です。
しかしそれは、私のような未熟な人間とって容易ではありません。

そうありたいと自ら選択し、そうあるように努めることまでしか、私個人にできることはない。そんな気がしています。

「特別性」

最後に、ACIMの「特別性」について少し触れておきましょう。

この「特別性」は、難解なテーマとされます。
それは私たちの人間関係のなかでさまざまなかたちになって現れ、私たちを欺きます。

私の場合は、自分自身の欠乏感を埋め合わせるために息子を利用しようとしていました。

自分の虚しさを埋め合わせるために、わが子が特別であってほしい。
特別扱いされてほしい。
そうすれば、親の私が満たされるはず…。

私はそうして、息子の「特別性」を介し自分が満たされることをひそかに目論んでいたのです。

”ひそかに”といっても、それは「裏でコッソリ行っていて、自分がなにをしているのかはわかっている」という意味ではありません。
自分自身、なにをしているのかまったく自覚していない。だから結果として、「秘密裡」になるのです。
(ACIMが「あなたがひそかに」「秘密のうちに」などと表現するのは、このような意味です)

ともあれ、このようにして自分の欲求充足のために他者を利用するのが、「特別性」のひとつの特徴といえるでしょう。
ACIMはほかに、特別な関係性の相手との間にはかならず「罪」と「罪の意識(罪悪感)」が介在していると指摘しています。

いずれにしても「特別性」の難しさの一因は、私たち自身がそれにほぼ無自覚な点にあるのだと思います。


過去からくる価値観がなければ、あなたは彼ら(あなたの兄弟たち)をみな同じで自分自分と異なっていない者と見るだろう。
彼らとの間に、分離を見ることはまったくないだろう。

Without the values from the past, you would see them all the same and like yourself. Nor would you see any separation between yourself and them. 

ACIMテキスト15章 Ⅴ8:3-4
日本語訳は筆者



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