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投影 ー思考は心を離れないー
これまでに幾度かACIMが考える「自我」の話をしてきました。ACIMを学んでいると、だんだんこの「自我」がめっちゃわるいやつに見えてくる。
でも実はこの「自我」、私たちの信念にすぎません。
自分自身とはどのような存在か。
現状での私たちのその自己認識が、平たく言ってしまえば「自我」の正体です。
そしてこの「自我」(という自分自身の信念)由来の思考は、「やましい考え」として投影される。
この「投影」という心理的用語は「自我」同様に、そもそも精神分析の言葉です。そしてACIMを学ぶうえでの重要なキーワード。
ACIMの考えによれば、心はつねに活動してています(生きているのです)。
そして、外界に自分の思考(内面)を知覚します。
その心の活動パターンの一つが、「投影」です。
投影
「投影」。字で書けば「影を投げる」。
言い得て妙ですね。日本語すごい。
自分自身の心の中の「影」(やましく不快で、自分から切り離したい思考)がそっくり「外に放り投げられた」状態。
上にも書きましたが、私たちは、内側(自分の心のなかの思考、想念)を外に知覚します。
(これもACIMでの非常に重要な考え方のひとつ)
ACIMで言う「投影」は、この知覚作用のなかでも、「自分にとって不快なものを切り離そうとする」面に重点が置かれたものと理解してよいでしょう。
ちなみに、知覚作用としては同じなのですが、これとは異なる原理で行われるものに「延長」があります。
ともかくこの「投影」のミソは、「放り投げた」ものが、自分からはすでに消去されたと信じられている点です。
「投影」されたものは、本人にとって、もう「自分のもの」とは自覚されなくなる。
しかしそれは、もとをたどれば当人の思考です。そして、生み出された思考はその源の心を離れません。「投影」されても、「出元」の心にしっかり残っています。
自分が切り離したい思考を「投影」しても、それを知覚すれば不愉快になる。投影の対象に対して、ネガティブな反応をするでしょう。
当人は「自分はその対象に不快になっている」と考えています。気に食わない相手にイヤな思いをしているだけ。自分は関係ない。自分が原因ではないのです。
しかし実は、自分のなかに残っている「切り離したい想念」に対しても不快になっています。
そもそもその「想念」がイヤだったわけで。すでに不快な状態です。
もっとも当人にそんな自覚はないでしょう。
なにせ投影が起きていますしね。
自己攻撃
ACIMによればー私たちの本質は心であり、心は想念を内包しています。
「心」と「心が考える思考」は、どこまでいっても無関係ではない。
思考は、心から切り離すことができないのです。
すると、私たちが思考した想念は、私たち自身の心にずっと残っていることになる。
この自分が思考した想念を不快に思うのは、自分自身に対する攻撃になります。
なにせその思考は、まだ自分自身の心のなかにある。
そして心と思考は、そもそも切り離すことができないのです。
この無自覚な「自己攻撃」の実害は甚大だと、ACIMは語ります。
これが起きているあいだは、奇跡を行うことがむずかしいとされています。
「コース・イン・ミラクルズ」の、肝心の「ミラクル(奇跡)」が行えない。「ミラクルワーカー(奇跡を行う実践者)」として機能しません。
これは、「コース・イン・ミラクルズ(奇跡を学ぶ「講座」)」の責任者として看過できない事態だ…と、ACIMのイエスは眉をひそめているようです。
気づいて、選択し直す
現状の私たちには、「切り離したい思い」が投影されるときの現行犯をとらえるのはほぼ不可能でしょう。
つまり「投影しない」という目標は、ムチャです。
少なくとも、ACIMがいう「心の力を熟知する」状態にないうちは、その目標設定には無理があると思います。
なにをどう「投影」しているか取り付く島もないうえに、心は生きていて、つねに活動しているのです。
通常の私たちの意識状態では、その動きにとても追いつけない。
そんな私たちにとっては、怒りや恐れなどの否定的な感情や思いを自覚するのが大切になるでしょう。
そして、その考えを「訂正」しようという自発的な選択をすることです。
しかしACIMを学んでいると「投影はダメなんだから、しないようにしくちゃ!」なんて思えてくるかもしれません。
しかし上にも書いたように、それはおそらく不可能です。
(瞑想の達人にでもなれれば、可能かもしれませんが。)
ACIMは、私たちに対して実行不可能なことを要求してはいません。
怒り(に代表されるネガティブな感情や思考)に気づいたら、それを継続するかどうかあらためて選択し直してほしい。
私たちの現状を認めたうえでの、あくまでもそんな「お願い」ベースです。
そして、投影以外の方法を教えてくれます。投影より、もっといい方法です。
私たち自身がそれを学んで「いい方法だね」と納得がいけば、自発的ににそれを選択し直すことができます。
個人的なプロセス
この「もっといい選択肢」は「赦し」「奇跡」と呼ばれます。
そしてこれは、私たちの日常生活での具体的な実践です。
私たち自身が、実際の自分の人生で、この実践をしなければなりません。
そのためにはやはり、自分が抱いている「特定の人に対する否定的な思い」に焦点を当てるという、なんというかー”泥臭い”プロセスがどうしても不可欠になる。
ここは非常に個人的なところだと思います。
世間のイメージのような「マニュアル化」はほぼ不可能でしょう。
誰でもこれをすれば自動的に罪悪感が解除されるという「魔法」はない。
少なくとも私はそういうものは知りませんし、もしあると言われても信用しないと思います。
そういう「便利ななにか」があったらいいのにな…という気持ちは、わからないでもありません。
楽して罪悪感が消えるなら、それに越したことはない…
のかもしれませんが、そような「ウマい話」はないのが実情だと思います。
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