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心は自由 

 



「私は体ではない」

私は体ではない。私は自由だ。

ワークブック レッスン199

数あるACIMフレーズのなかでも、印象に残るもののひとつです。
実際、「日々、このレッスンを欠かさず実践しなさい」と指示されているくらい。

「あなたは体ではない」

そう言われると、なんというか直感的に「そうだろうなぁ」と思えます。

自分の本質は、このぽっちぃカラダじゃないよね。
わかる。うん。絶対そうだ。

体の「外に出る」


ACIMに言わせれば、体は単なるモノです。
それ自体に、自発的な意志や活動原理はありません。

体は本来そのようなものですが、それ以上の存在だと考えられがちです。

私は長いこと「体は心を閉じ込める牢獄」みたいなものだと思っていました。

体には、心を幽閉する「力」が宿っている。
心よりも強い「拘束力」がある。

だからきっと、心が自由になるにはこの体から出なければならない。

体は、心にとって「乗り物」みたいなもの。
解放されて自由になるには、運転席から立ち上がって外に出なければ。

体の外に出る。
それが心の自由。

なにせ運転者(心)は、乗り物(体)に閉じ込められているのですから。

心の自由

体の外に出てこそ、心は自由になれるー

やがて私は、この考えがむしろ真実の認識を阻んでいることに思い至りました。

心にとって、体がある意味で「牢獄」と化してしまったのは、その通りなのだと思います。

しかし心の自由は、この「牢獄」の外側に出ることを意味していません。

鳥が鳥籠から抜け出して、自由になる。

私は心の自由を、そんなイメージで思い描いていました。

もしこれが真実なら、たしかに、心は自由になるため体の外側に出なければならないでしょう。

しかし心にとって真の自由は、自分はこの乗り物(体)の運転者なのだというリアリティを認識することなのだと思います。

 
自分はこの乗り物に閉じ込められ、
拘束されているのではない。

ましてや乗り物そのものと
同一化しているのでもない。

この乗り物の、一時的な運転者であるだけだ。

この乗り物には、
自分を拘束するような「力」はない。

このリアリティを認める正しい自己認識が、自由の本質なのだと思います。

自分自身が紡ぎ出した空想(ファンタジー)に囚われていた私には、それが見えませんでした。

いまは自由じゃない

これを、「時間」の観点で考えてみましょう。

もし「心は体の外に出てこそ自由」が真実だとしたら、自由は未来にしかありません。

いま現在、心は体のなかに幽閉されています。
自由はありません。
自由はいまではない、いつかの未来にしかあり得ない。
いま、ないのですから。

心はいったい、いつ自由になれるのでしょうか?

寿命を迎えて体が死ぬときか。
はたまた、幽体離脱の秘術をマスターするときか。

どちらになるかはわかりませんが、いずれにせよ未来には違いありません。
いまではないことだけは、確実です。

だとすれば、いまの自分にできるのは、未来の心の自由に向けての準備です。

未来の自由のためにやること、できること。
それはもう、いっぱいありそう…

未来の自由のために、「いま」を使う。
それは、むしろ心を幽閉し続けるにはとても”効率の良い”方法なのです。

「私はこの人を罪がない者として見たいだろうか」


心は本来自由です。一瞬たりとも、幽閉されたことはありません。
意に反して拘束されたこともありません。

心は体のなかに囚われているー

それは、心自身が生み出したファンタジーだったのです。

ACIMが教える「赦し」の実践には、実践者をこの認識へといざなう力があると思います。

そしてまた、ACIMの「赦し」は、相手を体として見ない実践とも表現されています。

「どうすれば私の兄弟を、体なしに見られるだろうか?」
そう問うべきではない。
ただこう問いかけて、答えを求めなさい。
「私はほんとうに、この人を罪のない者として見たいと願っているだろうか?」

Your question should not be, “How can I see my brother without the body?” Ask only, “Do I really wish to see him sinless?”

テキスト20章VII9:1-2
日本語訳は筆者


そうはいっても、上の引用文では
「相手を体として見ないためにどうすればいいか」
このように考えるのは適切でない、といわれています。

私たちはまだ、相手であれ自分であれ「体ではない」とストレートに知覚できる段階にはない。
体や知覚について、完璧に理解して認識しているわけではないからです。
(もしそうなら、この世界に「いる」ことはなかったでしょう。)

そのわれわれが、シンプルに自分に問いかけるべきなのはー

私はほんとうに、
この人を罪のない者として
見たいと願っているだろうか?

この「問い」に、ACIMが一貫して私たちに教えよう、学ばせようとするレッスンが詰まっていると思います。

「罪のない人」―贖罪

相手を「罪のない人」として見ようと願う。
この願望が、知覚者の知覚の原因になります。

われわれは、自分が願うとおりに見るのです。
(ACIMの重要な原則のひとつです)

そしてまた、相手を見るとおりに自分自身も見ることになる。
(これもACIMの原則のです)

「罪のない人」-それは「罪を贖われた人」、つまりその人は贖罪の恩寵に与った存在だという認識です。
他者をそのように見たいという願い(祈り)を継続する実践は、やがて必ず自分自身もまた贖罪の恩寵にあるという認識をもたらすことでしょう。

誰のものであれ「体」にを認めているあいだ、ACIMが定義する「贖罪」を私たちが認識するのは困難かもしれません。
本来もたない力を誤って与えられてしまった体は、私たち自身の罪悪感の投影対象になります。
その結果、当の私たち自身が、罪の信念から解放されにくくなるのです。

こうした理論は、ACIMの難解なところだと言われます。
でも、学ぶ価値はあると思っています。
それは私たちを、確実に正しい認識に導いてくれますから。

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