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イヴ・サンローランの口紅を塗る世界の話

前々回投稿した「32歳腐女子側だった頃の話」が数人の方に「スキ」をいただきました。
「スキ」してくださった皆様も、ご覧になってくださった皆様も、ありがとうございます。

今回はその記事の最後に記載した、仕事が決まったあとの話。
元々の自惚れ屋の性格から、気分を害する方もいると思います。

内定が取れた会社は第一志望ではなかった。
むしろ現役の就活生の頃は見向きもしておらず、ずっと無職でいることの恐怖感から慌てて受けただけだった。
(内定辞退者が出てはじめて拾い上げてもらったのだけれど)
実家から通勤ができてしまうので「東京に住み、仕事をしっかりと勤め上げ、煌びやかな人生を送る」という夢が叶わなくなった。

それでも「仕事が決まった」という高揚感が大きく「仕事をしっかりと勤め上げ」の箇所だけは叶えられそうであることがとても嬉しかった。

ルーズリーフや可愛いシャープペンシルやカラフルな付箋を買い揃えた。
タスク管理ができるというお洒落な手帳も買った。
そういうものに囲まれて仕事をすることができるのだと思っていた。
就職祝いということで、祖母が黒くてシックなワンピースを買ってくれた。
白いフレアスカートも久しぶりにクローゼットの奥から取り出した。

そして入社式を迎えた。
配属された部署は接客も事務も両方こなす必要があった。
全体的に忙しい部署で、仕事の引き継ぎもフローチャートを1枚渡されて終わりだった。
カラフルな付箋を貼る場所なんかなかった。
タスク管理をしようにも何をすればいいのかわからなかった。
4月3日に手帳に一行だけ書いたToDoは、数ヵ月して見返したらあまりにも情けなかったので黒く塗りつぶした。

受付をした書類をパソコンに打ち込んでいたら「デスクワークをする新人なんか見たことがない。もっとカウンターに出て」と叱られた。
このあたりで「好きな文具や小物に囲まれて仕事をする」という夢はここでは叶わないのだと気付いた。
かなり動き回るので、「黒くてシックなワンピース」は場違いだった。
白いフレアスカートは入社2日目に朱肉を落として汚してしまった。
最初の頃の意気込みを敏感に察知していた先輩からは「"そっち側"の人なのか」という趣旨のことを言われた。

クレーマーもそこそこ来る仕事だった。
理不尽に罵倒される度に、出勤するときの服装が適当になっていった。
着飾ることはない。着飾るのはアンバランスだ。
祖母からのお下がりでもらった粒ダイヤのネックレスも「つける価値のない場所だ」と思ってアクセサリーボックスの中で眠ったままだった。
それでも尊敬語は忘れずに使い、心身ともにちぐはぐな思いをしていた。

顧客の住所変更の手続きがそこそこの頻度であった。
他県へ引っ越しする人もいた。
変更後の住所に「東京都」と書かれる度に唇を噛んだ。
なんであなたたちがそんな簡単にそこへ行けるの。
悔しいという感情を押し黙らせながら手続きをした。

通勤途中の道に「贅沢逸品!」と書かれた飲食店があった。
東京だったらもっといいものが食べられるのに。
贅沢逸品なんてみっともない宣伝なんかしないのに。
この前の夏の忘年会だって、ホテルのコース料理と言っても普段食べているものに毛が生えたようなものばかりだったじゃないか。
結局、年収どおりの世界しか見ることができないのだ。


入社当初から毒を方々で吐き出していたので「説明会、来る?」と声をかけてもらえる機会があった。
そして出席した先の説明担当の方を見て驚いた。
髪にパーマをかけ、化粧をきちんと施し、シンプルで上品なアクセサリーとそのまま友人たちとの夕食に行けそうな服装。
ここでは仕事は生活の一部であり、今の会社にいる私のように「無職にならないために」と日々厭な思いをするだけの場所ではないのである。
給与は私にとって労働への対価ではなく単なる慰謝料に過ぎなかった。

そうしてそのまま面接を受けて、普段は行かないような場所に行った。
「ショッピングモール」ではなく「百貨店」と定義される場所。そこに恐る恐る足を踏み入れた。
1階に広がっている化粧品売り場を見て「そうか」と気づいた。

化粧品はイオンモールにしか売っていないものではない。プラザにしか売っていないものではない。
私はイヴ・サンローランの口紅から目が離せなくなっていた。
雑誌で見たことがあるロゴ。本物の化粧品。
今の私なら、頑張れば手が届く値段。

でも私はそれを買うことができなかった。
今のままその口紅を塗っても、結局アンバランスな世界を広げるだけだ。
それに「慰謝料」でそれを買うのか?「仕事をした対価」ではないお金で?
「いかがですか」と問いかけてくる完成された造形のような店員さんにぎこちない苦笑を返し、売り場を後にした。

それからしばらくして内定の連絡があって私は会社を辞めた。
転職先の会社で、入社の翌月に同期で飲み会が開催された。
場所は百貨店の近く。
時間より早く出発して百貨店に入っていく。もう何度もネットで色のサンプルを吟味して「これだ」と決めていた色を迷わずに指定する。
その小さな紙袋を提げて、会場に入っていった。

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