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無職(仮)1日目

いよいよ無職の生活が始まったかも知れない。断定出来ないのは、会社の手続きがまだ終わっていなくて、もしかすると10月もお給料が出るかも知れないからなんだけど、話がややこしくなるのでとりあえず今は「無職(仮)」という社会的ステータスになると思います、逮捕されたとしたら。

7月からメンタルをヘラって休職に入り、気付けば3か月も働いていないことになるのだけど、私は一体何をしてたんでしょうか。簡単に振り返ってみようと思います。

・7/6~14 ドイツ旅行

ドイツに住むかずちゃまを訪ねて、ミュンヘン、ローテンブルク、サンクトゴアール、ケルン、ベルリンを周遊しました。ジャーマンレイルパスを使って電車を乗り継いだり、ライン川クルーズをして古城に泊まったり、マイペースな女三人で過ごす、とっても優雅でロマンチックな旅でした。景色は綺麗、ご飯も美味しい。忙殺されていた日々から逃れて、15年来の気の置けない友人たちとこんな尊い時間を重ねられて、幸せなことこの上なかった。私が死んだら、棺にこの旅行の写真を入れて欲しいとお願いした。こんなに華やかな経験は、後にも先にも無いだろうと思うので。

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・7/21~7/25 実家

ゆっくり療養をするため、実家に帰ることにした。今思い返すと、最近ハァハァと息が苦しそうに感じられたユキ。「老犬 呼吸が荒い」等と何度も検索したけれど、細かい検査をしないことには分からない。もし肺の病気だったとしても、ちょっとの延命のための手術でこれ以上ユキの老体に負担を掛けたくないと思っていたし、そもそもユキはずっと目に力があり、いつも明るい表情でいてくれたので、母も私も長くはないだろうけれど今ではない、そう信じ込んでいた。食欲も変わらずで、お土産に買っていた調理パンや、暇で作ったパンプディングも、物凄い勢いで食らいついていた。あと1か月もなく死んじゃうなんて、1ミリも思わなかった。

時間があったので、ユキを手術の直前ぶりにお風呂に入れた。いつもの通り嫌がって鳴き叫んでいたけれど、皮膚を清潔に保つために心を鬼にして洗った。もう老犬なのであまりドリルをやってくれず、いつまでも大量の水が滴る。タオルで拭かれるのもドライヤーも嫌で逃げ周り、ビショビショのままテーブルの下の定位置に身を潜めていた。あのストレスで、ちょっとだけ寿命が縮まってしまったかも…?

母は気を利かせたのか、4日間ユキと一緒の部屋で寝かせてくれていた。寝ていると、知らない間に私の方へ来て丸まっているユキが愛しくて堪らなかった。ユキは夜になっても落ち着きがなく、長時間寝続けることが出来なくなっていたけれど、明け方にようやく横になって眠りに就き、夢を見て目をクルクルさせたり、足をパタパタさせるような仕草をしていた。その時に撮った動画が、ユキを写した最後の動画になってしまった。起きていても寝ていても、ただユキを見つめているだけで幸せだった。

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・8/10~12 あいちトリエンナーレ/養老

サカナクションの暗闇の公演を観るべく、表現の不自由展で話題のあいトリへ。都市型の芸術祭は人が多くてあまり好きじゃないけれど、ジャーナリズムを感じさせる作品の数々を見て、その難解さを消化したいモヤモヤが段々と癖になっている自分がいた。私は自分自身をモヤモヤさせるのが好きで、その感情を分解していくことで得られるものが、また好きなのだと思う。

余った時間を岐阜の養老で過ごす。天命反転地、滝等でリフレッシュ出来たが、こんなガッツリとしたレジャーを女一人でこなすことには慣れたくない。

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・8/19~20 高松

忘れもしない高松。瀬戸内国際芸術祭のボランティア活動をするべく飛行機で高松へ向かったが、その夜に実家の愛犬ユキの訃報を受ける。こちらに来てから息を引き取ったと思うと、ユキは気を遣ったのではないかという気もしたけれど、次の日のまだ薄暗い早朝に岡山へ渡り、新幹線で東京に戻って来た。うどんすら食べてない高松。使わなかった夏会期のパスポートを見る度に、あの日の母の悲しい声が再生される。

・8/20~24 実家/祖母&叔父の家

ユキが虹の橋へと渡った。お葬式が終わって葬儀屋さんが家を去った直後に雷雨になり、その後に綺麗な虹が出た。ユキが渡った橋。小さい頃に遊んだみんなが待っている橋。久々にみんなと会えて、尻尾を振って喜んで近付いていくユキの姿が思い浮かぶ。足は4本、まつ毛も黒々としている。呼吸だって苦しくないし、寝たい時にぐっすりと寝られる。そんな場所にユキはきっといるから、我慢するしかない。

しかし、母も私もその時は寂しさに耐え切れず、用もないけれど別のモフモフ達がいる祖母&叔父の家へ向かった。そこでは5匹の愉快な猫たちが暴れ回っており、少しの間だけ気を紛らわせることが出来た。ユキより小さい…、ユキみたいに笑わない…といちいちユキと比較したけれど、「お前さん、暗いんじゃー!」と言わんばかりに、甘えん坊のカン太が何度も私の前に来ては撫でてくれとお腹を見せて転げてきたので、沢山撫でてやった。ユキだったら、もっと強めにワシャワシャやると喜ぶんだけど…と思いながら、ゆっくり優しく撫でていると、ゴロゴロと喉を鳴らした。

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・9/12~ 転職活動

洋服の青山で買った新品のスーツで面接を受けた。何を聞かれるのかをググって回答も用意していたので、緊張もしなかった。新卒と違って人を見る目を養っているので、こっちだって選んでるんだぞという気持ちが自信に繋がり、常に堂々としていられた。クレペリン検査(ひたすら足し算をする適性検査)を頑張り過ぎたので、こんな辛い思いをしたんだから絶対に落ちたくないと思ってしまっており、少し冷静さを失っている。

・9/16 運転の練習

教官が、恐らく年下の坊主眼鏡の嫌な奴だった。「足元と車の距離ってどれくらいか分かりますか?」と質問され、教官もいれば外にも人がいたので「誰の足元ですか?」と逆質問してしまったら、話の脈略を掴んでいないことに腹が立ったらしく「誰のとかじゃなくて、足元って分からないんですか?」とキレられ、「足元の意味は~」とバカにして言われたことで関係に亀裂が入り、もう二度とこいつに心は開くまいと思ってしまうと、必要以上に体力を消耗してしまった。私も悪かったけど、キレなくたって良くないか?書いてたらまたムカついて来た。この田舎クソ坊主のせいで、勉強もやる気が出ない。(人のせい)

・9/23~25 Reborn Art Festival@塩釜/牡鹿半島/女川町

早朝のバスで仙台へ行き、30分ほど電車に乗って塩釜へ。四次元の賢治の完結編を観る。2年前に石巻の中瀬公園で第1幕を観て感動の涙を流したけれど、その時とは比べ物にならない程の完成度の高い作品に仕上がっていた。賢治の妹のとし子の死を通して描かれる死生観が、すぐに天国のユキへと繋がる。

牡鹿半島のアートはバスツアーを利用。ガイドの女性が非常に明るくて、話も面白い方だった。被災地での開催のためか、RAFのアートはあいちと違って見た目にも心にも優しいものが多い。そんな中で、パルコキノシタさんの命の循環を現した豚のモニュメント?は結構強烈な作品だったように思う。後ろには食用豚の小屋があり、開催最初は7頭いたものを少しずつ食べて今は1頭しかいない、との解説を聞いたからだ。牡鹿半島は増え過ぎた鹿を食用にする活動があって、それはそれで生き物の死をポジティブに捉えられることも出来るのだけど、豚はどうなのだろう…。これだけ、ちょっと猟奇的だ。

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水曜が休催と前日に知り、復興のトップランナーとして知られる女川町へ行くことにした。これが正解で、駅に着くとすぐ先に海が開けているのだけど、そこまで一直線に真新しい起業家たちが集まる商店やテラス、イベント施設が建ち並んでおり、観光客が次々と押し寄せていた。お昼まで時間があったので、駅直結の温泉で寛いだ。あの津波が流せなかった力強い温泉で、エネルギーをチャージ。女性客は一人もおらず、貸し切り状態だった。湯から上がって、テラスでおかせいの海鮮丼を頂いた。店員さんが皆元気で、復興とは何たるかを感じた。「人」だ。建物も必要、お金も必要だけど、やっぱり人が元気でなければ復興は出来ない。

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気付けばこのnoteを書き始めて3時間ほど経過していて、まとめる前に無職(仮)2日目に突入してしまった…そろそろ寝たいと思います。

まとめ

・ユキを超愛してる。ユキについてもっと書きたい。ユキが亡くなって、ユキの物語は私や母だけのものではなかったことを知ったので、そのことを書きたい。

・都心を離れて、地方の災害復興や地域活性化に関係する活動がしたい。その気持ちはずっと変わっていない。今回の休職や転職を生かして、何が出来るのかもっと調べる。

・何とかして免許を取って、いつでも田舎で生活出来るようにしたいし、芸術祭も自力で巡りたい。

・まとまらねぇ…

という訳で、一旦おやすみなさい。無職(仮)2日目へ続く。

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