Born in July
彼は夏のこどもだった。
7月の、雨が止み緑の色の濃くなる、美しい時期に生まれた。
その光の明度は彼の肌を、深い色に染めた。
バスに乗っている時、人々のざわめきと、車内の明るさに、夏の気配を感じた。
そういえば今朝、階段を上っている時も、夏の家の中の匂いがしたことを想い出した。
夏がどんどん近づいていって、やがて全ては、夏になる。
バス停で降りると、私は汗を拭い、彼の部屋まで歩いた。
小さな入道雲が、建物の間からのぞく。
空の青は気が遠くなる程、澄んで、強かな雰囲気を湛え、なのにまるで、自分が受け入れられているような気がした。
私は坂を上った。ハイビスカスが、行く道の途中の家の瀟洒な塀から、零れて視えた。
私が坂を上がると、彼が窓から手を振った。
私も、彼に手を振り返した。
佳生は、私の生き別れた双子だった。
とは言っても、血は繋がってはいない。
連れ子をひとりずつ連れて再婚した夫婦が、また離婚して、別れた。
そんな親を持つ子供が、私たちだった。
私と彼の誕生日は、午前0時をまたいで数時間だけ違う。
私達は、まるで双子だね、といい、他人に複雑なことを話すのが面倒なときは、必ず自分たちを双子なのだ、と説明した。
「いらっしゃい」玄関を出て私を出迎え、彼はきれいな、明澄な声で言った。
「お母さんは元気?」
「元気だよ。今はいないけどね」
彼は答え、彼自身の、優雅な動作で、階段を上がって行った。
やはり夏だ。天窓から射す光の明度。明るくて、眩しい。冬や春の様に甘くはなく、強さと、激しさがある。私はわくわくした。
彼は振り返り、笑い、「何笑ってるの?」と訊いた。
私は、「うん、夏だな、と思って」と言った。
「そうだよ。僕らが生まれた月だよ」彼は言い、部屋についた。
私たちが離れたのは、12才の時だった。
私は何度も泣き、父や母に、別れてほしくないと頼み、精神の疾患を患い、髪の毛が抜けた。
彼はぐっと黙り、私といるときにだけ、涙を流した。
「南弦、言っても無駄だ。僕たちとお母さんたちは違う。何を言っても、どんなに南弦が酷い病気になっても、決めたら、あの人たちが別れようって思ったら、もう駄目なんだ」彼はまだ小さく、今よりさらに繊細だった手で、私の手を取った。
「だから、良くなって。もし離れても、僕たちは仲良しのままでいよう」
「どうしてこういう風になるの? あんなに……」仲が良かったのに。私は言い、泣いた。
「あのひとたちは双子じゃなかったんだ」彼は言った。「でも、僕たちは違う。僕たちが離れることは無いよ」
聡明な眼で、きれいな表情で、彼は言った。
佳生にはじめて会った日を覚えている。
梅雨が明ける7月、その日は、バースデープレゼントのようにやって来た。
とてもよく晴れて、空は抜けるような青だった。
7才になったばかりの私達は、父と母に連れられ、そこここに植物の置かれたホテルのラウンジで会った。
白が基調の、品の良い、風通しの良い内装のそのホテルのラウンジで、彼の母親の横、独り掛けのソファーに、彼は坐っていた。
ほそっこい白い足、小学校の制服に、共布の紺の帽子を斜めに被り、既に完璧に洗練され、知性を持った、彼特有の顔つきをしていた。
私はひとめ彼を視た時から、彼を信頼し、彼に、恋のような、あたたかく、澄んだ感覚を覚えた。
その感覚は今まで、消えたことは無い。
それは、不思議な初恋だった。
家で本を読んだりしながら話し込んでいるうちに、夕方になった。暑さが引き、夜になってゆく。
夕景を視る為に、私達は外へ出た。
浄化された美しい魂のようなオレンジ色が空に横へ拡がり、雲がその透明感のある色彩に滲んでいるのを、歩きながら眺めた。
夕景が行き、暗くなるにつれて、青い光が空気を充たし、私達はその中を泳ぐように、歩き続けた。
佳生は夏の夜の散歩が好きだった。
私も、夏の夜が好きだった。佳生がいると、何も恐れることなく夜の中をゆくことができて、とても楽しかった。
私達はずっと黙っていた。けれどその沈黙の中で、私達の感覚は研ぎ澄まされ、知覚は深まってゆくようだった。
私達は2つに分かれ、けれども卵の中に控えている命のように、同じ意識を持っていた。
何かを共有しながら、深まってゆく。向かう方向は似ていて、しかし少し違っていた。
そこには夜明け前に射す青い光と似た、綺麗な寂しさ、希望の控えている、どこか美しい期待と不安があった。
私達は今、優しく白い布に包まれている。
そんな、生まれたばかりの双子なのだ。
「何かお茶を飲んでゆかない?」
彼は振り向いて、言った。
次第に深くなってゆく、しんとした青い空気の中で、陰影のついた彼の面差しは、現実には思えないほど、綺麗に思えた。
私は肯き、私達は道を引き返し、帰り道にある、近所のカフェに入った。
私達は、気怠いパーティーの後のように、ひとつのベッドで目覚めた。
きのうはさんざん酔ってはしゃいだ記憶があるが、気分は爽やかで、頭は冴えていた。
のびをして、ベッドから降りた。可愛過ぎない、持って来た新しいルームウェアを着て、裸足で床の上を歩き、朝の白い光の中、眠ったままの佳生の顔を視た。
色の薄い長いまつげを閉じ、洗われたような美しさを持った佳生の表情は、私を不安にさせた。
その不安の理由をキッチンで、ミルクガラスで出来たマグで水を飲みながら、考えた。
その理由が解かったとき、はっとした。
私は、佳生と離れることを、心の底で怯えていたのだ。
「おはよう」
私が薄く切ったホールウィートのブレッドをトースターにかけ、ふんわりとしたスクランブルド・エッグをつくっていると佳生が起きて来た。
佳生はオーガニックのオレンジジュースと、冷やしておいたサラダを出した。
「よく眠ってたね」
ギリシャ神話に出て来る、月の女神が恋する羊飼いのように眠っていた佳生の寝顔を思い出し、私の胸は微かに疼き、それに知らない顔で、私は言った。
「うん? でも5時間しか眠ってないよ」
佳生は言った。
「うん」私は肯いた。「できた」
私は言い、2人でテーブルに皿を運んだ。そして朝食を摂った。
プールへ行く用意をして外へ出ると、空は遥かに広くて、呼び掛けたら、応えてくれそうだった。
私が空ばかり見上げていると、佳生が笑った。
「南弦って、上ばかり見てる」
「あんまり綺麗で」
「そうだね」
私達は言った。
「ずっと、たまに空を視ながら、南弦の前に、ひとがいてぶつからないかとか、注意できたらいいのにね」
佳生は言った。
私は黙った。佳生は、私より前を見ている。でも、感じていることは一緒なのかも知れない。
プールに着くと、そこはまだ開いておらず、繊細な造りの鉄の門に、重い、赤茶に錆びた鎖が絡まっていた。
「まだプール開きしていないんだね」
「えー、せっかく用意してきたのに」
私達はさして落ち込まず、軽口を言い合い、アイスを買って、浮き輪を肩に掛けながら、大使館近くの公園を散歩した。
walkin’ on the rail, drinkin’ ginger ale
like an adventure tale send by air-mail…
佳生は歌い、私は笑い、アイスを食べた。
蝉が鳴く中、木陰の下の、木製の端が腐食し、崩れているしめったベンチに坐った。
「海へ行きたいな」
「ひとがいない海がいいね」
「うん。静かな」
私たちは言い、空を見た。
「ずっとこうしてたいな」
佳生は言った。
私は彼を視た。そして、黙った。
「ずっと?」私は言い、のどの奥が詰まるのを感じた。
「無理な気がする?」佳生は言った。
2人で黙った。
「僕たちも、大人になる」
佳生は言った。
「大人になるって、選択してもいいってことなんだ。きっと。決めなきゃいけないんだ。過去に傷ついて、そのままでいるか。恐くても、未来の方を向くか」
「でも……」私は、涙を流した。「あの時のことを、繰り返したくない。また離れると思うと、気が狂いそうになる」
「あれは、運命とかじゃないって」
「死によって分断されたら? 佳生だって、好きな人ができて、結婚とかするかも」
「結婚しないよ」
私たちは黙った。
太陽が、雲に隠れた。
夜が明ける時の、透明な青の空一面に、ピンク色の雲が掛かり、そこに冴えた白の半月が浮かんでいた。
私は窓辺で、それを視ていた。窓を開け、水分を豊かに含んだ風にあたる。
夜明け前は、いつも私に、何かを見せてくれる。
そっと手を広げ、私は、その中を視る。
それは視えないのに、私には、きちんと解かる。そして、夜が明けると、夢のように、それは余韻だけを残して、消えてしまう。
「ねえ、愛って何だと思う?」
その日の午後、私が紅茶を淹れるため、水色のケトルでお湯を沸かしていると、カップを暖めながら、佳生は言った。
「愛」
私は言い、しばらく考えた。とてつもなく美しい、光のようなものがイメージできた。
それは巨きくて、完全な何か。マリア様の瞳から、抱く腕の中へ注がれるあの慈しみ。磔刑の死すら恐れない、したたかな信念。
とても遥かな場所に在って、たどり着くことができないように思える何か。なのに、求めることをやめることができない何か。
「たどりつけないものかなあ」
私は言った。佳生は肯き、軽やかに、とても綺麗に話した。
「うん。そうかも。純粋で、完璧な愛。でも、僕は、こうも思うんだ。愛は、全ての人が持っている。そして、魂みたいに、永遠に、絶え間なく、僕たちの中に存在し、燃え立っているんじゃないか、って」
「ふん。」私は言った。
「うん、僕たちの感情は、もともとは、愛そのものなんじゃないか、って思うんだ。恐怖に塞がれたり、不足に苦しんだり、でも、時に目覚めて笑ってみたり。
僕たちは表現しようとしてる。笑顔を向けたり、理解しようとしたり、誰にでも公平に振舞ったり、ごはんをつくったり、何かを受け取ったとき、大切にしたり。
それは、小さくても、細切れでも、愛なんじゃないかな」
「そういう風には、考えたこと無かったな」
「僕はそう思うんだけど……。不完全であっても表現したり、できなかったり……。
性善説と、表現の自由を、同時に信じているんだ。人間は、残酷で、信じがたいほど悪いことも出来るだろうけど、その根は、魂は、本当は、いつも綺麗だって」
「そうだったら素敵だね」
「うん、僕たちは魂のレヴェルの美を持ちながら、表現の美を模索していると思うんだ」
「私、イノセンスを信じてたな。でも、それは汚れてゆくと思ってた」
「いや、汚れることはない、と思うよ。それは表層意識での汚れだと思う。心の奥に、いつも穢れない何かがあって、それが魂なんじゃないかな。その火は、いつでも新陳代謝を繰り返していて、穢れは受け付けないし、燃え尽くしてしまうと思う」
「それは感じたことがある。そっか、それは叶わない何かだと思ってた。気まぐれに出てきて、時に私を癒してくれるものだと思ってた」
「僕もそれが魂だと思う。そして、きっと気まぐれなのは、僕たちなんだ。魂はいつでもそばにいてくれる。でも、僕らが見えないと思ったら、見えないんだ。きっと、恐くて、見たくないんだろうね。誰だって、悪いことをしているとき、何かに、見られていたくないものね……自分が罪の意識を抱いたりしているときも、魂は見ていて、冷静に、理解している。そして僕たちより多く、答えを知っているんだろうね」
私と佳生は黙り、ケトルが熱い湯気を出すのを見て、火を止めた。私は温めたポットにリーフを入れ、佳生は優雅な手つきで、その中にお湯を注いだ。
自分の部屋だった場所のベッドで、佳生とくらすことについて考えていた。
ネガティヴなものが黒い煙のように昇ってきては、立ち消える。私は閉ざした心をそっと毛布で覆ってみた。強すぎる太陽を宥めるように。やがて痛みは消え、夢にとりかこまれる。美しい、甘い光の様なヴェールに。
小さな女の子がいた。白いドレスを着て遊んでいる。
ヨーロッパの少年の様な服を着た男の子がそばにいる。
その子に、微笑みかける。綺麗な眼。
男の子は、女の子の手のひらの中に、眩い光を差し出す。それはとてもあたたかい。
懐かしい様な、ずっと昔からある様な、美しい光が、語る様に射す。
少年は微笑む。そのあたたかさに、私ははっとする。
私は目覚める。そして、夢を反芻する。
愛。私の焦がれるもの、に、触れること。水を与える様に。
いつかは、あたりまえの様になってゆくだろうか。人に、与えることもあるだろうか。
私たちは再び、プールへ歩いた。
花々が咲いていた。向日葵、葵、凌霄花。
佳生の横顔に、汗が薄っすらと浮いていた。私は前を向き、歩を進めた。日は真っ直ぐに、強く楽器を鳴らすように、私達に射し続けている。
私達は時に項垂れるように、下を向いた。でもそれは、水の足らない花のようなもの、私は歩きながら、私達が強烈に夏に、焦がれていることを知っていた。
私達は、叶う恋をしている。それは、一生続く。それは、生まれたときにも、私達と一緒だった。
それは祝福のような呪いなのかも知れない。それでも私は、神様に感謝するのだ。
私達はプールに着いた。小学校の夏休みが始まる1日前だったので、人は疎らだった。
消毒液の匂いのシャワールームを抜けて、私達はおもむろに水色のプールの中に入った。
私達ははしゃいで手を繋いだ。水の中で。
上へ向かう。水上へ出て、顔を拭う。
笑い、滑るように泳いだ。
私は雲に隠れた太陽を視ながら平泳ぎをし、佳生は水の中を立って歩いていた。
眼を瞑り、泳いでいると、そっと佳生が背に手を添えた。
水の中は涼しく、佳生の手は、魚の尾のように静かだった。
「小さい頃のこと、思い出すね」
佳生は言った。
「そう?」
「うん。知ってる? 僕の初恋の相手は、南弦なんだよ」
佳生は言った。
「あの、はじめてあった日、南弦に恋して、それは続いてる。僕にとってそれは、崇高な友情みたいで、凄く永い間、南弦を信頼してるんだ。
そして、そう、それは変わらないんだろうな。きっと、永遠に」
lyrics by Happy Like a Honeybee from Flipper's Guitar
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