永遠

  






 彼の周りの空気は澄んでいて、特別静かに見えた。

 ブルーの瞳はいつも優しいものを湛え、私を包んでくれた。


 彼はもういないけれど、湖に近づき、月夜に裸で入っていくように、私は彼の気持ちに近づくことができる。



 彼の瞳を覚えている。彼の額の匂いを覚えている。彼が指した花の色を覚えている。

 それらを私は深く刻んだ。頭の中に。決して消えないように。



 高い所にのぼって空を見る彼の癖、煙突を見ると、もし彼が立っていたらどうしようと思い、いつも笑ってしまう。その瞬間に、訪れる感情は言葉にし難い。


 彼を神に仕立て上げるつもりは無い。けれど彼の姿は、何よりも私の心を整えた。


 彼と初めて会ったのは、12年前だった。


 小学生だった彼はきわめて真面目な顔で、眉間に皴を寄せ、静かに机の上を見ていた。

 何かなと思い、彼の視線と同じところを見ると、彼の机の上に虫が止まっていた。


「虫!」私は言った。


「しっ」彼は言い、その瞬間、虫は飛び立った。


 私たちは宙に浮かんだそれを見ていた。


 虫が開け放たれた窓のところへ行ってしまうと、彼は笑った。軽やかで、すぐに溶けてしまう、雲のような笑顔だった。


「名前なんていうの?」と私は言った。


「久賀 桂」彼は答えた。「お前は?」


「瀬戸 明」私は言い、にっと笑った。




 私たちは友人になり、中学生になっても、高校が離れてしまっても、大学生になってもよく遊んだ。


 私たちはよく歩いた。

 もうすぐ夜になる夕方の、透明で暗い青の光の中。

 夕暮れの中のばら色と薄いオレンジの太陽に照り映える雲間。


 私たちは色んな事を喋り、いくつもの静かな刻の中を過ごした。

 私たちは互いに好意を持っていたが、つきあった事は無かった。


 一度だけ、セックスをしようとしたことがある。

 明るい光の中、私たちは服を脱ぎ合い、性器や体を舐めあった。


 しかし、つまらなくて、すぐに止めてしまった。そのとき、彼はタバコを吸っていた。



「俺達って、ずっと友達なのかもな」


 煙を吐き出してから、眉間にしわを寄せて、彼は言った。透明な瞳は繊細な茶色の睫に縁取られ、未来の希望をもう手に入れているように明るかった。



私は「そうかもね」と気の無い声で言った。






 彼は21歳で死んだ。心臓発作だった。電話を持ちながら、眠るように目を閉じ、床に座ってソファーに寄りかかっていた。



 その姿を見たとき、あまりにも安らかな彼の顔に、私は神に感謝した。



 彼の遺族は彼の意思によって葬式を行わなかった。

彼の自分の死について書かれたスケッチのようなものが発見され、彼の家族はできる限りそこに書いてある通りにしようと思うと言った。



 私にはノートブックが1冊残されていた。

それを開けると、海の砂がパラパラと落ちた。



 私は貝殻にそっと耳を当てるように、裸足でそれを踏んでみた。



 記憶が蘇ってきた。


 私たちは海を囲う防波堤に坐り、コーラのロゴと絵がプリントされた赤い紙コップを持って、未来について、次々に話をしていた。




「家建てようよ。ギリシャに」私は言った。



「いいよ。ギリシャ語、勉強しろよ」

 彼は風に髪を揺らし、気持ち良さそうに答えた。


「わかった」私は言い、コーラを飲んだ。



「難しいらしいぜ」ふと思い出したように彼は言い、

 私は笑って、「ぜんぜん大丈夫」

とうそぶいた。




「ねえ、俺が死んだらどうする?」

不意に彼は言った。



 そのとき吹いた風が、やけに涼しく感じた。



「死ぬ」私は答えた。



「……いや」彼は言い、笑った。「天国で待ってるから、ゆっくり生きてくれ。もし死んだらさ、それまでにギリシャに家建てられなかったら、俺が天国の雲の上に家建ててやるからさ」



「ギリシャに建てようよ!」


 私がそう言うと、困ったように彼は笑い、私は自分の胸のうちに冷えたものを感じた。


 どうやっても温められない、悲しさに至る前の兆候。



 私の意識は部屋の中へ戻り、裸足の、足の裏を眺めた。








 彼が死んだ後も、なぜか悲しいとは思わなかった。


 造られなかった墓の代わりに、海に彼の骨を撒く旅に出た時も、彼が死んだことに真っ白い空白のような空虚の他に感じるものはなかった。



 やさしい白い粉となった彼の体を、柔らかく手のひらは包み、彼の友達5人と、私と、彼の両親と共に、骨は撒かれた。




「なるべく多方位に撒いてあげて」


彼のお母さんは言った。


「あの子、いろんなところへ行きたいと思うの」




 私たちは位置を変え、さまざまな方向に撒いた。



 友達の一人が泣きだしたとき、彼のお母さんはそっと近寄り、何かを言ってあげていた。


 それは優しい光景だった。



 風が吹き、皆の衣装や髪が揺れていた。



 ケイ。どうしてこんなに淋しくないんだろう。


 私は思った。


 もう会えないなんて、信じられない。




 私は骨を巻き終わって、彼と同じ銘柄のタバコを口に咥えた。


 それは彼が死んでから覚えたものだった。



 ケイのお母さんは、海の彼方を見ていた。

そのときふと、永遠という詩を思い出した。


 永遠。


 それは太陽と番った海。


 

 ふと気がつくと、私は永遠を見ていた。


 

 海の描く水平線。



 その彼方に、彼は行ったのかも知れない。




 明るくぼんやりと暮れてゆく淡いオレンジの太陽、海水に光が映えている。



 私は涙を落とした。



 ケイのお母さんが、遠くから見ているのがわかっていた。彼女は近寄ろうとせず、見守っていた。


 私はその時初めて、ケイの行った場所を想った。



 嗚咽は始まり、止まらず、私は柵を握り、涙を押し出した。



 

 ケイのいる永遠へは行けない。けど、そこではきっと彼が待っている。




 ゆっくり生きろよ。天国に家を建ててやるから。




 彼の言葉を思い出し、私はそっと頭の中でつぶやいた。


 雲の国で、ケイが待っているのを楽しみにしているよ。



 永遠の中で、そのギリシャに在るような白い家の中で、果てしないお茶会を開こう。


 じっと坐り、黄昏に溶けるように黙っていたあの時の様に。



 私はこれから生きていく。残りの人生を。



 だから待ってて、いつか私が行く時まで。



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