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ツギハギだらけのシャボン玉。(2019)

普段、日々を無為に過ごしているので、時々、何か足痕を残さねばという焦燥感に囚われる。なぜ焦るのかと問われても、それはよくわからない。
兎に角、考えてるコトのモヤモヤ感を活字にしてしまえば、それを封じ込めるコトができるのだ。


海外ドラマ「MR.ROBOT(ミスター・ロボット」で、主人公が他人をハッキングして、あらかた情報を収集すると記録媒体にそれを移植し、後は証拠隠滅のために使用したPC筐体を徹底的に壊し破棄する。残った記録媒体(フロッピーみたいなの)を、隠してある箱にポイっと収納して、事案はお終い。後はそれを振り返るコトもなく、新しいハッキングに取り掛かるという、あの感じがとても好き。「X-ファイル」でもいいし、「レイダース/失われたアーク」でもいいが、何かを収集する過程が目的で、その収集したモノの行き先はどうだっていいのである。それがエリア51の地下倉庫行きだったとしても。

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先月、父の一周忌を目前に、母が住居を移転した。
場所は名古屋市千種区覚王山・日泰寺というお寺の北側にある「メゾン覚王山月宮殿(1971)」という10階建の昭和なアパートメントだ。

築71年なので、今年で48年という当に筋金入りの昭和レトロ物件(建物名で検索するとリノベーションやらデザイナーズやらと様々な物件情報が出てきた)であるが、両親は新築当初にここを購入し、僕らを育てた。

僕は東京からこちらに来て、幼稚園から小学校卒業まで約10年ほど過ごした。思い出は尽きない、というほどの思い出はあまりない。

大体にして記憶というヤツは事実を客観視できないで、経験する自己(その物語に浸り体験する私)と物語る自己(その経験を解釈して物語化する私)の二つが絡み合って”私”であるというので、そこには都合よく脚色されたでっち上げの記憶しかないのだ。

すぐに思い出せるのが、痛い経験、怪我だの事故だのそういった類い、それから恥ずかしいコトとか、叱られたコト、一番思い出せないのが楽しかったコト、これは何故なのでしょうかね、特に何処どこへ旅行に行ったとかいうコトなど完全に消去されている(笑)これは由々しき問題ですぞ、世の親御さん達、どこへ連れて行っても同じですよ、でもね、たぶん、きっと。

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中学生からまた東京へ行き、この土地の記憶はそれから途絶えるのだが、今回引越しの荷物整理を手伝いにここへ何度か来た折に、近所を散歩してみた。

その日は、日泰寺・弘法さんの日(縁日/毎月21日)、当時月宮殿からそれを眺めると、見事にずらり露店屋根が並び、壮観でした(家は9階でその頃は高層ビルはありませんでした)。

弘法さん(弘法大師/空海)の日は、子供時分楽しみだった。(こうやって楽しかった記憶を引き出していく)だから映画「泥の河」のお祭りシーンを見た時、その頃の気持ちが戻ってきたようで、親からお小遣いを貰い妹を連れて、あのだだっ広い境内に所狭しと並ぶ露店と、溢れんばかりの買い物客の間を縫って、お目当の屋台を探す。そうやってお客の足をすり抜けていく間に、お小遣いを失くしてしまったりして(やはり辛い記憶が先行する)泣きべそかいたりした。そんなものすごく賑わっていた縁日も、今や露店は数える程度でお客も疎ら、やっているのだかやっていないのだか、その当時の記憶が間違っているんじゃなかろうか、小さかったから大きく見えただけじゃなかろうか、訝しるくらい閑古鳥でした。早い時間から、缶ビール片手にふらふらと日泰寺を抜けて、地下鉄"覚王山"駅の方へと。駅までの参道もすっかり垢抜けて、カフェやらオシャレ店が並んでる。足繁く通った駄菓子屋も、二宮くん家の青果店も、もうそこにはない。

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そうだ!畑野くん家まで歩いてみよう、少し酔いも手伝って、愛知歯科大学(ここで虫歯を抜き歯矯正した。痛い思い出)を超え本山駅、城山八幡宮までテクトコ。八幡神社を詣で、ここではよく蟻を水攻めにして殺生したものだ、と独り言ち。

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ぐるりと神社を周回すると、昭和塾堂(**説明は別項)ここが、畑野くん家である。見ての通りの、なんじゃこりゃ〜〜である。未だに、僕はそう思うんだけど、当時もいったい何でこんなとこに住んでんだろ?と不思議でした。種明かしするまでもなく、畑野くん家のお父さんは、住み込みでここの管理人やっていたのでした。帝冠様式(1930年代、和洋折衷の建築様式)又は、折衷様式とかいわれてるとのコトだが、小学生にとっては探検できるいい遊び場でした。まだその頃は、陸軍司令部の残骸や、昭和初期の洋式椅子、それに研究施設の残留物(試験管とか、医療系の物)とかも打ち捨てられていて、さんざん荒らした。それにしても、今はもう誰もいないし、施設内へも入ることは出来なくなっていたが、改めてこれは貴重な建築物だと思う。何か、新たな利用方法はないものなのでしょうか?

城山幼稚園に通っていた。大龍寺の敷地内にあって、その頃はなんともボロボロのお寺で、その脇にとってつけたような施設が幼稚園で、ラボ・パーティという英語教育をお遊戯でする会の練習もここだった。因みに、小学校時代の僕は、習い事だらけでした。公文式、習字、算盤、水泳、ラボ、工作学校、ピアノは逃げ出しましたが、小6には進学塾へも行かされた。時々その塾の夢を見る。月謝をチョロまかして塾へ行かず、それがバレるのが恐怖という夢で、これはいったい本当にそれをしたのか、ただ塾へ行きたくないという妄想が夢になっているのか、もはや事実は確認できない。自分が覚えていないんだから、仕方ない。兎に角、習い事をそんなにやっても、結局何一つ身になっていないのだから、お子に強制的に教育をするというのはあまり意味のあるコトだとは思えません。

月宮殿に戻り、その昔この建物の隣にあった「姫ヶ池」を思う。今は、埋め立てられて駐車場になっている。この辺りの敷地は、ほとんどが日泰寺の所有地で「姫ヶ池」もそうだった。気になって調べてみたところ、

*上姫ケ池、明治時代「西源蔵池」、江戸時代「西どろあき池」と称していた。
*昔、末森城が今川勢に攻撃されて、奥方や姫たちは西の方へ逃げ、逃げ場を失った彼女たちは池へ身を投げて自殺したとのことです。その池が姫ヶ池であると伝えられています。
*「姫ヶ池」は戦国時代に末盛城(現:城山八幡宮)の丘のふもと(現:松坂屋ストア月見ヶ丘店の向かい側あたり)にあったそうですが、現在はそこから400m程北に行ったところに何故か「姫ヶ池交差点」「姫ヶ池バス停」があります。
交差点の側に「放生池」という石碑が建っていますが、姫ヶ池のことではなく別の池です。

という。つまり、僕らは「姫ヶ池」と呼んでいたが、「放生池(または名無し)」ということなのだろう。先ほどの城山八幡宮梺にあったのですね。でも地名は、姫ヶ池というややこしい話でございます。この池では、よくアメリカ・ザリガニを捕って、そのザリガニをバラして餌にして、またザリガニを捕まえたりした。度胸試しで生のまま食べたりもした。よく病気にならなかったもんだ。あと、この池にボートを浮かべ、それから飛び込んだという自殺の話も有名だった。それが小学校の先生の妹だとかなんとか、口裂け女が流行っていた時期でもあるし、絶対信憑性はないと思う。自殺といえば、この月宮殿から飛び降り自殺したという話も有名だ。なにしろこの辺りに10階建なんてビルは無かったし、昔は屋上まで誰でも行けた。その飛び降りた人と、部屋から外側を見ていた人との目が合った、なんて話で大騒ぎしたもんだ。怖え〜〜とか言って。でも飛び降り自殺は本当、2回くらいあったと記憶してる。
今や月宮殿の前の姫ヶ池通りも整備され、一直線に池上の方まで抜けられるようになったけど、昔は陽宮殿(月宮殿の後にできたビルですが、陽なのに月より小さいのである)の裏手辺りは、掘っ立て小屋みたいなバラックと林で、外で半裸のおばさんが洗濯板持って洗濯してたり、パンツいっちょの親爺がクダ巻いてたりしてた。

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そして裏手は、水道局の敷地内、東山給水塔という、これもまた時代がかったジブリにでてきそうな塔が建っている。この辺も、子供時分の探検スポットだった。整備される前は、謎の施設や倉庫があって、林も乱立していて、虫もたくさん獲れた。樹液に集まるカブト虫とか、早朝に掴まえに行ったりもした。よくよく考えてみると、今と違って自然に溢れていたんだな。この土地には、飼っていた犬が車に轢かれて死んだ時、死骸を埋めたのですが、整備工事が始まって、父が慌てて掘り起こしに行ったことを覚えてる。その犬もね、城山町にある花屋(仏花を売っていた)で貰ったのです。あの辺りも、自由が丘まで抜けられる道が整備されたけれど、小さな沼や池がたくさんあって、水木しげる的な枯れた地域でした。カラスがカーカー鳴いていて、枯れた木に底無し沼、墓場が乱立してた。霊堂も今はお墓のマンションとかって、近代的な建物になってるけど、その側には日清戦争戦没記念碑、それも何か子供ん時、嫌な気分にさせた。その周囲に砲台とかが囲んでたりして、戦争という何か得体の知れないものと、お寺やお墓の醸し出す雰囲気が一体となって、気持ち悪い場所だった。そうそう日泰寺の周囲は、プチ八十八ヶ所霊場巡りができるのよ。朽ち果てたお地蔵さんが、いろんなとこに点在してます。謎ですね、それも。

なにやら掘り出してみたら、思いの外、イロイロと出てきました。多感な小学時代を過ごした土地ですもの。考えてみたら、自分にとってこの時期が一番忙しかったのかも知れません。視野は狭いが、次から次へと学ぶべきコト、知るべきコト、夕暮れまで遊んで、帰れば夕食が待っていて衣食住の心配なし、そして新しい経験がやってくる。そういった記憶も捏造なのかも知れないが、物語ってしまうと本当のような気になる。だからそれでいいのだ。母がこの地を離れたので、もう訪れる機会がないのかも知れないが、後は自分の記憶を手繰って、拵えていくしかない。街はどんどんと変貌し、今は過ぎ去っていく。過去に脱ぎ捨てたそれらを、もう一度羽織ることなど出来ないが、落としてきたモノを拾い集め、繕い物をするように、ツギハギしていくのだ。

そしてそれがシャボン玉のように浮かんでパチンと弾けたら、まるで玉手箱を開けた浦島太郎のように、あれあれ白髪のご老体となりましたとさ。

*覚王山日泰寺
超宗派の寺院である。タイ王国から寄贈された 真舎利(釈迦の遺骨)を安置するために、創建された。「覚王」とは、釈迦の別名。また「日泰」とは、日本とタイ王国を表している。創建当時は約10万坪であったが、現在は約4万坪。

**昭和塾堂(しょうわじゅくどう)は、愛知県名古屋市千種区城山町の城山八幡宮境内に残る昭和戦前期の教育施設。
所在地は末森城の二の丸部分に相当する。大正から昭和初期にかけて、青年会(青年団)の活動が各地で盛んとなったことから、愛知県がその教化の中心となる精神修養の場として、昭和4(1929)年3月(工期約1年)、建設された。昭和18年には旧日本軍により接収されることとなった。戦時中には陸軍の東海軍司令部として使用されることとなった。戦後は、名古屋大学医学部基礎医学系諸教室や、愛知県教育文化研究所、千種区役所仮庁舎などを経て、愛知学院大学大学院歯学部研究棟として使用された。wiki

***東山給水塔
1930年(昭和5年)3月に完成。名古屋市上下水道局の給水施設。名古屋最古の給水塔で、高さは37.85メートル。

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