グレショー・森の童話三部作『赤ずきん!』感想・考察
グレショー 森の童話三部作『赤ずきん!』の感想と考察です。
なんかいろいろ。
○赤ずきんの年齢
森の童話三部作は原作が童話なだけ子供だった頃の主人公を前提に、成長した姿が描かれていたが、
赤ずきんのみ大人にはなっていなさそうだった。
もしかすると童話本編に比べればなっているのかもしれないが、
挙動が子供のそれである。
14歳、中学生です、と言われたら疑問が湧くほどに子供のそれである。
勿論日本のそれとは訳が違うのだろうが、知らない人に自分の情報を喋るし、花畑で踊るし、そもそもおつかいを少々心配されて親に注意事項の釘を刺されるような子だ。
そしてそこ注意事項を悪気なく破るあたり、大人とは言い難い。
というより、子供扱いされ、子供のまま、赤ずきんのまま、
親に全てを決められ選択権を与えられて来なかったが故に精神の成長が止まったという意味での
"子供っぽさ"
だったのかもしれない。
○赤ずきんとおばあちゃん
これは感想。
というか童話本編の設定を見て文字通り、そうなんだ…………ってなった話。
もしかするとこの『赤ずきん!』の世界には、"物語"という私たちの知っている言葉とは少し違う概念が当たり前にあって、
それは私たちにとっての芸能人の生み出す流行語やノンフィクション映画のようなもので、
彼女たちにとっての赤ずきんは、彼女たちを象徴するそういうものなのかもしれないなと思った。
だからその通りに、どこかで観ている誰かに求められる通りにやらないと彼女たちは食いっぱぐれてしまう。
ブームを去らせないように必死で足掻くような、
一発屋がひとつのギャグに縋って、たまに呼ばれた仕事で過去の人として懐かしのネタと言われながらギャグをやるような、
そういう醜さがありながら、生きていくために、今の生活を続けるために必死になっていた結果の物語なのかなとも考えた。
祖母にとってそれがあまりにも縋らなければいけないものだったとするなら、
赤ずきんに対して手作りの赤いずきんをプレゼントし続けていてもおかしくはない。
もし本編の赤ずきんが既に童話本編の年齢でない、成長した姿だったとしたら、
あの頃の赤いずきんをぴったり着られているのは、誰よりも物語・赤ずきんに執着している祖母からのプレゼントだと考えるのがしっくりくるだろう。
○赤ずきんの教訓
童話には子どもが物語を通して何かしらの学びが得られるようになっているものが多い。
その為、赤ずきん(子ども)の間違った行動を通して子どもが学びを得るように出来ているが、
今作は視聴層が大人に近く、教訓も大人向けに変えられていると言える。
それが、セイコや祖母の行動や言動を通して見る子どもの意見の尊重。
子どもは右も左も分からない存在であり、大人自らが導いてやらないといけない存在である。
そして、親であれば子どもを赤ちゃんの頃から見ているため、精神の成長に気が付きにくい。
勿論大人も日々たくさんのことを学ぶ為、子どもは親に追いつくことなどないと親は思いがちでもある。
だから親が全て決めるのが一番正解に近いだろう、というのが今作の本筋の問題行動。
子どもを縛り過ぎるな、意見を尊重しろ、という教訓が得られる仕様になっている。
が、ある意味答えのない、子どもの意見をどこまで尊重したら良いのか、という疑問についての導きは本編にはない。
親の言うことを聞こうね、という童話の教訓に従うには親への返事が「はい」一択となり選択肢などないが、
親はその場その場で判断を強いられる。
例えば、子どもが好き嫌いをして野菜を残したとする。
この場合に意見を尊重して、残したいなら残せばいい、としてやるのが良いのかと言われればそんなことは無いだろう。
この尊重のラインに明確な正解などないのだろうが、今作の祖母やセイコの答えは間違いだったことだけが明かされている。
間違いでない判断を下しましょうね、という教訓だとしたら、少々酷な話である。
○オオカミのキャラクター
なんだろうな。
どうしても赤ずきんの年齢故もあるし、相手がオオカミであることもあって、火遊び的なイメージが抜けないというか。
(赤ずきんは世界で語り継がれる中で性的な要素を含んだ物語になった遍歴もある)
ただ少し危険な、親に怒られてしまうようなことをしたい歳頃なんだろうな……という感じか。
オオカミが自由を象徴する存在として描かれている以上、オオカミが猟師に捕らえられ、猟銃で撃たれて怪我をさせられ、大した謝罪を受けることも出来ない、それが現実であるという表現である気もする。
自由には責任が付き纏い、縛られるものがない故に自分を守ってくれるものもない。
逆に縛られ過ぎていた赤ずきんが反発するようにそれに憧れるのは分かるが、それは自由への覚悟ではないだろう。
ただ、オオカミのは受けている自由による弊害を赤ずきんが理解しているようには思えないところがなんとも。
オオカミのキャラクターを優しそうで気遣い屋、人畜無害そうなイメージを持たせたことで、
赤ずきん視点では、
否定ばかりの母親がこんなにも優しいオオカミさんまでもを否定している
になってしまわないか?
勿論オオカミは赤ずきんを食べる悪い存在ではあるが、それこそ赤ずきんは子どもだ。
その場その場で起こったことを額面通り受け取ることしか出来ない子どもなら、
もしくはそれを承知で親への反抗をしてしまったなら尚のこと、
一見優しいオオカミについてしまうオチはバッドエンド過ぎる。
これがもし、親の教育失敗を教訓に学ぶ娘の反抗期だとしたら、あまりにもガチ過ぎないか……。
(原作がオオカミに食われた赤ずきんの末路から学ぶ子どもの教訓だったのだから、物凄く正解でもある気がするが)
○オオカミが象徴する「自由」が孕んだ危険性
ただただ赤ずきんには信用出来る人が、周囲にひとりもいなかったんだろうなというのが……。
その点ヘンゼルにはグレーテルがいたし、これからはヤマダもいて、限りなくヘンゼル(主人公)にとってのハッピーエンドに近かった気がしたが。
赤ずきんは自由というあまりにも広大で、僕らの冒険はまだまだ続く、が過ぎるオチだった為、正直諸手を挙げてハッピーエンドとは言いきれないこの感じ。
あと関係ないけど、『ヘンゼルとグレーテル!』では童話本編でヤマダ(魔法使い)がヘンゼルとグレーテルを食べようとしていた、と明言していた。
殺そうとしていた、ではなくわざわざ、食べようとしていた、とし、更にそれに触れるような会話が最終話で展開された。
『赤ずきん!』における祖母と赤ずきんを食おうとするオオカミを考えると、
これも今作における共通点としていいかもしれない。
(両方人食いの中の人が正門くんなのは偶然なんだろうけど、最近サイコパスキャラも根付いてきてるのに怖いなと思った)
『桃太郎!』は鬼は実際にはいなかったから肌で感じるような危機には陥らなかったけど、
これも今作の共通点だとすれば人食い鬼だった可能性も高いなあと。
結局全作話が上がるだけで誰も食べてはいないことも共通点かもしれない。
○役名について
ツイートはふざけていたというか、分かりやすい呼称を考えていただけなのだが、
三部作を通して『赤ずきん!』のみ役名にメンバーの本名がかかっている。
今までグレショーで名前がそのままだったと言えばいるかボーイズなんかがあったが、
今回は教訓を込めた、間違った行動を起こす登場人物に本名を掛けるという攻めの姿勢。
ある意味一番教訓じみた三作目(最後の作品)にこれを持ってくるのはなかなか肩をブン回してるなあと思った。
○森の童話三部作、三部を通して
三部作通しての明らかな共通点がいくつかあった。
特に顕著だったのはペットボトル。
正直わざわざ出す必要性もなかったし他のものでも全然代用できるにも関わらず、三作品共に登場する。
意図しているのは明確である。
(なぜペットボトルだったのかは定かでは無いが、ポイ捨てされるものの代表的ものである必要があったのか?)
「そう、やったのはお前だ」
「でもやったのはあなたです」
等のセリフも重なっていた。
意志と行動と責任の所在を問うセリフが重なっていることから、裁判に繋がるとも思える。
三権分立は本当に…………勉強し直すしかない。
以上、森の童話三部作『赤ずきん!』感想でした。
グレショーさん、いつもありがとうございます!
これからも末永く続けてください!!
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