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怡庵的 徒然なる日々 もの書きになりたい

「物書き」になりたいという夢を改めて持った。
思い返せば小学生の卒業文集の将来なりたい職業の1つに「小説家」と書いたはずだ。

やがて才能がないことに気づきあきらめたが、ここぐらい十年前にふと随筆や紀行文を自分の手で紡ぎ出したくなった。メルマガ、ブログと開設をて、プロのライターに長く批評を仰いだ。しかし、どちらも世に出そうとするとリアルな「現在」がほしく「取材」が不可欠だと思い知った。あちこちへ軽やかに動かないといけないと。

この歳になってくると旅好きだったはずの自分が思うように心も身体も動いてくれないことに気づいた。冗談半分に「誰かお守りしてくれ」と発信したこともあった。となれば、この「物書き」における「相棒」がほしくなった。(書けもしないくせにだが…)

そう思いついた時に頭にひょいと浮かんだのは田辺聖子氏の秘書ミド嬢の存在だった。妄想は際限なく広がっていった。誰かそういう人が都合よく現れないかと夢うつつの中で願った。取材に欠かせない「相棒」をと。しかし、やがてこの思いは「記憶の澱」の中に静かに静かに沈んでいき、いつの間にか忘れていった。

「ねえ、ぼくがマネージメントしてあげるよ」

春まだ浅い東京国立博物館の前庭にあるお気に入りのベンチにぼくと彼は腰かけていた。「仁和寺展」開催中で、目の先ではエスニックな装いでアラビアコーヒーの提供をしていた。ふたりの手にもそこでもらった紙コップに入ったコーヒーとナツメヤシがあり、たわいない会話と共に楽しんでいた。風はおだやかで青い空のところどころに雲が浮かんでいた。

ここ何か月前から彼は短歌の道をめざし始め、ぼくにも一緒するよう何度も勧めてくれていた。この日も続きを話していた。そこで、
「ぼくには短歌や俳句の才はないなあ。でもやるなら散文を、それも随筆なら何とかなるかも知れない」と何気なく伝えてみた。ただし、先にも書いたように「相棒」が欲しいことも伝えた。

そこで返ってきたのがさっきのことばだった。あまり本気にしなかったが、彼は至って本気で、「記憶の澱」を棒でぐるぐるかき回されたように眠っていたものが起き出してきたようだった。

これまで短期間ながら、つき合いの中で以外にもお互いに共通点が多くあることに気づいていた。逆にこれだけは何があっても譲れないという違いが存在することも承知していた。 

「伊勢に行きたい」と言い出せば、「一緒に行ってみたい」と言い、早速計画を具体的にに考え出すのは決まって彼の方だった。「ふぐを食べに行きたい」と言い出した時も即答だった。

そしてもう一つ。自称「プチ乗り鉄」の自分だが。ある時「シベリア鉄道」に乗ってみたいと語ったら、「おつきあいしますよ」笑いながら返され、その前に国内で練習しよう、例えばサンライズ瀬戸か出雲で旅をしようと提案してきた。丁度夜行寝台列車が消えていった時代にぶつかった彼は乗る機会を逸してしまったようだ。「瀬戸」なら高松で讃岐うどんを、「出雲」だったら出雲大社に詣でて、割子蕎麦をと会話ははしゃぐように盛り上がるのだった。

「美術鑑賞」「食」「鉄」はぼくらにとってセットになっていった。負担は
かけない、楽しければいい、歳だもの。のんびるゆったり急がない。それがいい。

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