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小1から高3までの担任について書く

 タイトルの通り、私の小学校1年から高校3年までのクラス担任(ときどき周辺のこと)について書きたいと思います。書こうと思った理由は特にありません。布団に入った直後に突如思いついた。

(後記) あまりの長さに後記に辿り着かずにページを閉じる人が出てきそうなので、ここに後記を挟みます。ちゃんと以下の文章を書いた後に書いていますよ。
 もうね、長すぎる。書きすぎた。なんか長くない…?と気付いた途中から投稿を分けるか考えたのですが、完全に自己満の、微妙に読ませる気のない記事だったわコレ。割と砕けた日本語で書いちゃってるし。と思い出したのでそのままにします。
 最後まで読んでも何も起こりませんが、お付き合い頂ける方は10~15分ほどお時間を用意して以下へお進みください。↓

小学1年

 住宅街と竹林と川と畑に囲まれた、半都会半田舎な場所にある小さめの小学校の、昇降口を入って左に曲がってすぐの教室。

 当時の私から見ればおばちゃんくらいの年齢の女の先生が担任だった。

 私は本名に「の」が入っているのだが、平仮名のそれがどうしても上手く書けなかったがために休み時間も先生と一緒にずっと練習していた。

 3学期の席替えで廊下側の席になってしまい、とても寒かったことを覚えている。算数のテストの時に、あまりの寒さに手がガチガチで途中から鉛筆が持てなくなって、息を吹きかけて必死で手を温めたことをなぜか鮮明に覚えている。

 これ以外は何も覚えていない。小1なんてそんなもん。

小学2年

 若めの男の先生だった。明るくて、子供が好きで教師になったんだろうなぁという感じの。

 クラス内の平和に人一倍厳しい人だった。

 そのおかげでクラス内の平和がかなり保たれていたと思う。多分。

 先生のところで九九を諳んじて言うと、段ごとに好きなシールをもらえるシステムがあった。

 先生が6×7の答えをずっと48と言っているのが不思議で仕方なかったが、シールをもらうために48と言った気がする。

 その後私は、一度言ったことをかき消すようにひたすら「ろくしちしじゅうに」と教室で呟いていた。

 (これはクラスの話ではないが)私は学童っ子だった。シャワーホースとたらいで水遊びをするのが大好きだった。学校全体の使用量からすれば小さいかもしれないが、水道代のかかる少女だった。

 しかも、学童ではシャボン玉を自由に使えた。小2の私からしたらパラダイスな訳です。使い尽くす勢いでシャボン玉もやっていた。

小学3年

 若めの女の先生だった。

 小3くらいから、分かりやすく私のなんでなんでが始まった気がする。親がどう思ってるかは分からないけど、私の体感(?)はここらへん。

 小3の1年の間に担任の先生が結婚して、苗字が変わった。

 先生が「先生は結婚して、苗字が変わりました!」ばりのことを言っていたような気がする。その時、私の頭の中は「なんで??????????」だった。苗字が変わることなんてあるのか…とものすごい衝撃を受けたことを覚えている。(私の中に)今は亡き純粋無垢な9歳の少女よ…。

 給食当番の時に、手を洗って濡れた手を割烹着で拭いたら手形がついてしまい、それを指摘されて手を洗いなおすように言われたことがある。
 言われて手を洗いなおしたところでハンカチが空から降ってくるわけでもないので、私はまた割烹着で手を拭いた。

 ついでに、私が建築士カッケェ……と思ったのは小3の終わりあたり。

 9年後に建築学科に入学するなどまだつゆも知らず。

小学4年

 定年近いおじさん先生だった。でも超元気で活発で、教育熱心な先生だった。おそらく学校一厳しかったけど面白くて、私の理科についての「なんで??」を実際にやってくれることで解決してくれる先生だった。求める子に与えまくるタイプの先生だった。あと、近づくとタバコのにおいがする先生だった(笑)

 いじめとか生徒間のいやがらせにもものすごく厳しかった。おふざけ半分で友達がオルガンを弾いてる最中にオルガンの蓋を勢いよく閉めた男子が、詳細は控えるとして、先生にシバかれてた。

 あと、曲げたハンガーにトイレットペーパーをかけて天井から吊るして、ティッシュ代わりに使っていたのが当時の私には不思議で仕方なかった。先生は「これはトイレットペーパーじゃなくてロールペーパーだ」と言い張っていたけれど、私にはトイレットペーパーにしか見えなかった。

 今思えばものすごくどうでもいいなこれ。

 天井から吊り下げるシリーズで言えば、天井から紐でガムテープも吊るしていた。私は2011年4月から小学4年だった。先生曰く、地震が来ても、自分の揺れなのか地震の揺れなのか分からないから、ガムテープの揺れで判断するのだと言っていた。ホエーーーーくらいの気持ちで聞いていた気がする。

 二分の一はたちの記念製作?の表紙作りで、好きな色の画用紙に好きな形を切り抜くというものがあった。
 それぞれが思い思いの好きな形に切る中、私は薄紫色の画用紙に大きな丸を書いて、それを切り取った。

 友達には「ゆずちゃん、なんで丸なの?」と言われる一方だったが、先生だけが「大きな丸いいね、太陽?」と、丸が太陽を表していると分かってくれて、心がものすごくジーンとなったことを覚えている。

 小1から高3までを振り返って、小4の時の担任が本当に一番良い先生だったなぁと思う。大袈裟に言えば、私の中の考え方の基礎みたいな部分を作ってくれたというか。勿論一番は親から大きな影響を受けると思うけれど、その次は誰かと聞かれたら、私は小4の時の担任の名前を挙げると思う。

小学5年

 ひょろひょろ体型の女の先生だった。年はどのくらいだったかな…。

 申し訳ないことに、11歳の私は既に、担任の先生が貧乳だということを理解していた(言葉は知らないにしろ)。すみません。本当にすみません。

 私を含めた女子4人で、学校にたまごっちを持ってきてこっそりやっていたが、当然のことながらある日バレる。めちゃくちゃ怒られる。隣のクラスの先生にも怒られたことに関しては完全に「なんで???」だった。問題はそこじゃないのだよ、当時の私よ。

 メダカの卵を顕微鏡で観察したり、人体模型を使ったり、金属に熱を加えることによって膨張したりとか、水と二酸化炭素を入れたペットボトルを振ると凹むとか、全部小5じゃなかったっけ。分かんないけど。

 気体検知管を使いすぎて何か言われたことを覚えている。

 私の小学校は毎年各クラスにお花の植木鉢が2つずつ配られる。小5になって突然その花のお世話ガチ勢になってた。おかげで、通信簿の「動植物への興味関心態度(うろ覚え)」みたいな欄に初めて二重丸がついた。

 ガチ勢とは言いつつも、給食でゲットしたスイカの種をこっそり植木鉢に入れてた。全国を探し回れば同じことをした仲間がたくさんいそう。

 林間学校の委員になって、キャンプファイヤーの火をつける係になった。実際に自分の頭の上の方で火が燃え盛る棒を持って歩いた時は、このまま火が自分の上に落ちてきて焼け死ぬんじゃないかと思った。楽しかったけど。

小学6年

 私は初めてモーニング娘。10期の石田亜佑美ちゃんを見た時に「小6の担任じゃん!」と思いました。違うけど。お顔がものすごく似てる。そんな先生でした。

 多くの他の先生はやらないことをまるで自分の教師としてのアイデンティティかのようにやる先生っているじゃないですか。それでした。

 宿題は隣のクラスよりもいつも1つ多い。それが何かというと、一言の日記を毎日書く、というもの。

 今現在私は毎日日記を書いているのですが(週末にまとめて書くこともあるけど)、当時の私には苦痛でしかなかった。興味ないことを毎日やらされることの辛さと言ったらそれはもう。

 朝の会の宿題回収の時間に提出が必須で、それ以降の提出は認めない。帰りの会で、その日に日記を出さなかった生徒は名前を呼ばれて立たされる。もう何度立たされたことやら。そんなに言うなら嫌でも書けば、と思いますよね。私もそう思う。でも当時の私にとっては「日記<<他に興味のあること」の不等式が成り立ってしまっていたので、なかなかに難しかったんですよね。

 あと、この先生は、怒ると最後に「反省したら後で職員室に来なさい」のタイプの先生だった。今思うとめちゃくちゃにウザいな。自分より明らかに弱い立場の小学生を従えて支配欲を満たす残念なヤツ…と今の私は思っておくことにします。

 歴史が苦手であることを自覚し始めたのも小6くらいだったかな…。国語や漢字、算数は得意だし、理科なんて面白い以外のなんでもないし、運動音痴でもなければ、図工ではいくらへんてこなものを作っても「個性」と評価される。ただ、歴史だけは苦手だった。いくら頑張っても100点が取れなかった。「ごおんとほうこう」が書けなかったショックをすごく覚えている。

 この歴史嫌いは、高校受験、そして高校卒業まで付きまとう。(笑)

中学1年

 森の熊さんみたいな先生だった。主に体型が。

 冬になると「風邪やインフルエンザにかからないように、手をぺろぺろぺろ~って舐める前は手を洗いましょうね」と毎日のように言う先生だった。

 意味が分からない。いや分かるけど。決してボケたりすることで生徒のウケを狙うタイプのキャラの先生ではなかったので、超真面目な顔と声のトーンでこれを言われると普通に怖い。

 定期テストの試験監督になった時は、教室のドアの上を掴んで全身を反って伸ばしていた。今更だけどあれすごく気になるからやめて欲しい。

中学2年(4月~8月)

 比較的若めの男の先生だった。担当は理科。体型はひょろひょろ。

 苗字に熟字訓が入っていた。下の名前は4画の漢字が一文字にも関わらず、初見では絶対読めない読みをする先生だった。

 中学2年の私は色々とありメンタルがぶっ壊れまくっていて、2年の1学期の欠席日数だけで、滑り止めで受ける高校の推薦の3年間の欠席日数の条件(上限)を余裕でオーバーした。

 学校には全然行かなかったけれど勉強は苦手ではなかったので、学習面については担任には何も心配されなかった。ただひたすらに、病んでいるメンタルだけを心配された。

 そんなこともあり、担任との面談の数がえげつなかった。何回やったんだろう。感謝しかない。ありがとうございました。

 その中で1回だけ将来の話をしたことがあった。先生は大学で地学系の勉強をしていて、将来は石博士(はかせ)になりたかったのだと言っていた。

 その後の話についてはうろ覚えと言うかほとんど覚えていないが、今となってはどんなことを勉強していたのか、どうして石博士にならずに教員になったのか、ちゃんと話して聞いてみたいとも思う。

 登校した日の休み時間、私は窓から身を乗り出してリコーダーを吹いていた。担任は私の横でただ黙って聞いてくれていた。

 進級するごとに新しいクラスのクラス目標を掲げて教室なり廊下なりにポスターのようなものを掲示するのだが、中学2年の時は私の案がクラス目標に採用されたことを覚えている。提案者は学校に来ない上に秋を前に転校したけど。

 中学2年の新クラスの初期の席で隣になった男子がクルトガの0.3mmのシャーペンを使っていて、少しの間だけ借り、その良さに感動した時から大学生である今日まで、ずっとクルトガの0.3mmのシャーペンを愛用している。委員会が一緒だった男子にαゲルを勧められて一時期愛用していたこともあったが、結局はクルトガに戻ってくる。根っからのクルトガ愛用者。(αゲルの中身もクルトガだったっけ?覚えてないや。)

 これはクラスじゃないけど、私は1年の時から技術の先生ととても仲が良かった。この先生は私の小学4年の時の担任と似ていて、求める生徒に色々与えてくれるタイプの先生だった。詳しいことは割愛しますが、本当に良い先生だった。

中学2年(9月~3月)

 転校して最初の先生。若いとは言いづらいけどおばちゃんと呼ぶには少し若いくらいの年齢の先生。担当は英語。可もなく不可もなく。

 3学期制の学校を2学期から新しい学校、という形で転校の日程を組んだのだが、転校先の学校が2学期制で、私が転校してきた頃が丁度前期の終わりの頃だった。なので、転校して1週間で期末テストだった。範囲も何も知らなかったけどちゃんと出来た。

 というか、転校先の学校、8月の途中から学校始まってるのだが??9月からじゃないんか??ってずっと思ってた。

 クラスとは関係ない、ちょっと余談。私が転校を経験して、その前後の学校の違いで特に驚いたこと2つ。

 1.教室の後ろのロッカーにカバンを入れる/入れない

 2.傘は傘立て/廊下の傘掛け

 1つ目ね、これはもう私の中では革命的な何かが起こったんじゃないかレベルの驚きだった。

 転校する前の学校はカバンは後ろのロッカーにしまって、授業の前の休み時間に次の授業の物をカバンから取り出して用意しておく必要があった。必要な教科書を机に持っていくのを忘れて後ろのロッカーに取りに行ったら忘れ物扱いでチェックつける、みたいな極めて非本質的で理不尽な先生もいた。

 転校先の学校は、毎日の勉強に持って帰る必要のないファイル類は後ろのロッカーに置いていってOK、カバンは机の横に掛けるなり、椅子の下に置くなり。 

 カバンが机のすぐ近くにあるおかげで準備のし忘れの心配がほとんどなくなった。なんなら、転校してきた学校には忘れ物を授業の度にいちいちチェックして成績に反映させるとかいう意味の分からない制度が存在しなかった。もし後ろのロッカーに物を忘れたとしても、「先生、ロッカーから〇〇を取ってきてもいいですか」「はいじゃあ静かに急いで持ってきて」のやりとりだけで済んだ。来てすぐの頃はとても驚いた。

 2つ目。前の学校は昇降口にクラスごとの傘立てがあったけれど、後の学校は、廊下を挟んだ教室の向かいに傘掛けがあった。滴った水は受けを流れてそのまま排水溝へ流れていくシステム。

 いや、ここに持ってくるまでに階段と廊下がビシャビシャになるやん!!と盛大にツッコみたかったし実際になっていたが、誰も気にしている様子がなかったので私も気にすることをやめた。

中学3年

 おじさん先生。担当は理科。終わり悪ければすべてダメ。当時のことを思い出して、今総じて一言で表すならこれ。

 中学3年の最後の成績で、理科に4をつけられたことを忘れていないぞ私は。私が受験する高校が理数科(オンリー)で、受験の時には数学と理科の内申は2倍で計算されること知ってて4にしたでしょ!!!って言いたい。私の中学校生活において一度も理科に4がついたことなかったのに。一番最後だけなんでやねーん。受かったけど。

 受験前最後の面談のあのニヤニヤ顔も忘れない。薄くなりかけているその頭の髪の毛がどんどんなくなってツルピカのハゲになってしまえと本気で思っていた。

高校1年

 髪の毛がなかった。40代の男の先生。理数科の高校に来たのに、よりによって担当が体育。よりによってとか言ってすみません。

 担任に関してのこれといった思い出は特になし…。

 高校1年の時の私は高校受験の反動で完全に燃え尽きており、何もしなかった。本当に何もしなかった。ただ茫然と授業をこなしていくだけの毎日。

 何かをきっかけに危機感を覚え、3学期から突然火が付いて数学をメキメキやるようになった。得意と言えるかどうかは置いておいて、少なくとも大学受験で死ぬ程困るほどの苦手科目にはならなかったので、この時に火が付いていなかったら私の大学受験はどうなっていたのだろう…と思う。考えるだけで怖い。

 クラスの思い出もこれと言ってないような…。卒業後の今も特に仲の良い女子3人とは、1年のこのクラスで一緒だったな。

 そういえば1年の時のクラTの背中のデザイン担当したわ。

高校2年

 良い担任だった。卒業時にLINEを交換するくらい、お世話になったし仲良くなった先生。若い男の先生で担当は化学。この1年の間に、ずっと付き合っていた彼女とご結婚された。おめでとうございます。(笑)

 小学1年~高校3年のクラスを振り返って、12年の中で一番良いクラスだった。担任もクラスメイトも大好きなクラス。中3の時もクラスメイトは仲が良かったし大好きだったけど、残念ながら担任があまり好きではなかった…。

 理数科かつ男女比考慮なしの高校、そして入試だったので、どうしても男女比が偏るんですよね。高2のクラスは、39人中男子が28人、女子が11人だった。(工業高校とかだともっと偏るのかな?)

 でも、分かりやすく何かをこじらせた面倒なタイプの人がいなかったこともあり、男女みんなが仲の良いクラスだった。進級時のクラス替えが嫌すぎて泣いてる女子もいたっけな。私は泣かなかったけど結構寂しかった。かなり寂しかった。

 そういえば、担任かつ化学の先生でありながら、私の化学の授業の担当にはならなかったね。(笑)

高校3年

 学年の男女みんなからものすごく支持のある、所謂可愛い先生が担任だった。担当は生物だったから、物化選択の私はほとんどお世話にならなかった。1年の時に生物基礎の授業で少しだけお世話になったような気がしなくもない。

 誰にでもニコニコと話しかけてくれる先生だった。すごく良い先生なのだけれど、どこかそれが苦手でもあった。なんでだろうね。分からない。

 前の前の段落で「私はお世話にならなかった」と書いたけど、めちゃくちゃお世話になってたわ。思い出した。高校2年の時の研究活動(必修)で私は生物分野で、その時の担当の先生が高校3年の担任の先生でした。実験室の物の管理にものすごく厳しい先生でした(超大事)。

 そもそも、卒業後の進路面談もこの先生だったし、めちゃくちゃお世話になってたわ。

 このクラスは体育祭で最強だった。

 全学年6クラスあり各学年の同じ組が一色のチームとなり体育祭で競うのだが、私の3年のクラスが率いる青ブロックは1,2,3年のクラスが全て強く、ぶっちぎりで優勝した気がする。確か。

 文化祭も楽しかったな。クラスは食販の一画としてたこ焼き販売をした。

 教室の外装作りがこれまた楽しいこと楽しいこと。みんなが勉強の時間を惜しんでまで必死になって作り上げたクラス企画が大成功したのは本っっ当に楽しかったし嬉しかった/(^o^)\

 もうこれ、担任の話じゃなくてクラスについての懐古話になってるよね。



以上!!終わり!!!

7,600文字も書いてしまった。原稿用紙にして19枚。

ここまで読んで下さったあなたはすごい。

明日良いことあるよ。きっと。多分。おそらく。