見返さない写真(9月)

西武園ゆうえんちの花火を観に行こうとしたら、電車の遅延でスムーズに乗り換えができず花火に間に合わなかった。あの辺りの交通機関、遊園地があるとは思えないくらい貧しいな、と思うけど遊園地がある駅って大抵一本しか通っていないような気もしてくる。


行き場所を失った自分と友人が適当に西武ドームの周りを徘徊していると、耳馴染みのない音楽が響いていて、誰のライブなのか調べるとレディー・ガガだった。

花火を見に行けなくなった自分たちは、8年ぶりに来日パフォーマンスを行うレディー・ガガのライブの音漏れを聞いていた。ライブが終わる時間帯になって、西武ドームから出てきたファンはみんなレディー・ガガのファンらしかった。ホットパンツを履いている人が多かった記憶だ。


帰り道、花火が見れなかったことを残念に思う気持ちのほとんどは消えていた気がする。友人はどうだったか分からないが。

仮に、花火を見たかったなあと心残りに思っていたとしても花火の画像を調べたりすることはないだろうし、打ち上げるようすをYouTubeで見ることもなかっただろう。ここで私は声を大にして聞きたい。


花火の写真って、見返しますか?


花火大会はもちろん、テーマパークとかフェスとか、フィナーレの証として花火が打ち上がることがある。

その場にいる人はみんな花火を見上げていて、その様も含めて花火が好きだ。でも、写真は要らないなと思う。とりあえずでカメラを向けている人が多いのだとは分かっているが、見返さない写真って必要だろうかと思ってしまう。しかし、書いていて気付く。私が花火を見上げている人も含め花火が好きなのと同じように、見返さない写真を撮るのも含めて花火が好きなのかもしれない。多分それが多様性ってやつだ。別に撮ってようが撮ってまいが個人の自由で、見返そうがそうじゃなかろうが、写真自体を消そうが、全部自由である。お互いがお互いに干渉しない、攻撃し合わないとかそういうことが大事なのかも。

私も、心の中では「(その写真見返す?)」と思っていても知らない人に突然話しかけて「それ見返します!?今肉眼で見とく方がいいんじゃないですか!?!」とは言わないし。すごく仲のいい友達に言ったことはある気がする、すみません。

Twitterの引用リツイートやリプライで物申してる人って、それが対面ではないだけでやってることは同じだよなと思うと怖いですね。周囲へ意思表明をしたいだけなら身内で固めた鍵垢でやればいいのにと思う派です、なので鍵垢からの引用については直接言ってこない優しさもあるのではないかと思っている節があります。気にしている人に対してやり続けるのは確実に嫌がらせですが…。


多様性がどう、みたいな話はあんまりしたくないというか、そもそも私も言わないだけで心の中には無意識的差別や偏見がまみれているタイプなので何も言えないのです。もっと雑に言うなら、結構どうでもいいのかもしれない。分かりやすさをとってセンシティブな話題を選ぶなら、LGBTQの人がこの世に存在していてもいなくてもどっちでもいいと思っている感じ。ただ、色々な人がいると言う事実は知りたいので最低限の知識くらいは身につけておきたいな。

なかなか告白できない人がいるという世の中の空気や風潮を変えたいと言う人が声をあげているということなのかな。実際、私もそれがなければここまで考えてないはずだし。「多様性」を考えていくと、どんな人も生きやすい世の中をつくることに近づいていって、自分の考えや行動は正しいものなのかと立ち止まるきっかけになる。

自分はひねくれた性格や少々難のある思考は持っているかもしれないが、所詮それは自分自身の中で消化できる問題であり、マイノリティな特性を持っているわけではない。故に自分の生きづらさを解消するために起こす必要のある行動なども特に思いつかない。だからこそ努力している人たちのことを馬鹿にしたり無碍にしたり出来ないな、と思ったり、ウエストランドが執拗に下北沢の小さい劇場で演劇活動を頑張る若者を腐すことは普通に笑えたりしちゃう。


ここまでを2023年7月のはじめに書いていた。

いろいろなことがあって、どう考えたらいいか どう書いたらいいか 私なりに頭を使った。まだまだ難しいけど、考えることだけはやめずにね それくらいしか取り柄がないもんで

だから、そんなに考えてて疲れない?(笑)だったり 考えるのやめてみなよ 等の言葉をかけられるとつらいからね 人とちがうということは常にそういう気持ちを抱えて生きなきゃいけないということでさ 仕方ないけど、仕方ないで片付けたくはないからね、

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