2024/04/11 日記

とても久しく、久しぶりに日記を書く。

今日は昼に起きた。
昨日ほどの頭の明瞭さはないが、どうにか抗える範囲の明瞭さだったので、今日こそは、とカフェに赴く。

どうにも集中できない。
昨日、なぜかふと「ヘルペスウイルスと鬱病」に関する、慈恵医大の記事と出典元の論文に出会った。食い入るように読んだ。

これによると、ヘルペスウイルスに起因する脳の炎症により、うつ状態になるということだった。

今日もカフェでうつとウイルスについて調べた。
TMS治療という物があるらしい。磁気による電気刺激で脳の一部分を活性化させるとかなんとか。

うつだけでなくブレインフォグにも効果があるらしい。

「脳の炎症」と聞いて、何か合点が言ったような、安心した気がした。
鬱になったのはコロナ禍の2020年8月。
日記や記録を見るに、結構はっきりとこのじきに鬱になっているみたい。
思い当たる心理的要因がないから、コロナに隠れ感染してそれが原因で脳に炎症を起こしてうつ状態になった。と考えれば辻褄が合う、合わせられちゃう、気もする。

エセ科学に対して猛烈な嫌悪感と、自分はそんなものを信じるような人間にはなリたくない、という意思に反して、こんな勝手な辻褄合わせをしてしまう。

反ワクチン論者は、自分が信じたい情報を調べるからそればかり情報が吐いてきて、さらに思想が加速するらしい。

「渦中にいる人間は盲目になる」
これは今まで生きてきて、いろんな人を見てきてわかったことだ。
そして、自分は今、鬱という渦中にいて、何か盲目になっているのかもしれないという思いも強くある。ブレインフォグのように思考力が落ちているから尚更だ。

悔しい。
科学的に考えたい、科学信者、何かこの世界にある絶対的な理に即したことを信じたいのに、本当に科学的に正しいかどうかわからない情報を信じようと、縋ろうとしている自分を俯瞰して、悔しい。苦しい。

ただでさえ、不可逆なことに対して猛烈な恐怖がある。
レーシックとかそういうもの。
でも今日いろんな情報を調べる中で、抗うつ薬で何か重篤な副作用が出た人もいるらしい。
ということは、自分は4年ほどそのリスクに晒されつつも「薬物療法」を行なってきたということか。
鬱病になって、薬物療法をしてみて、「自分が変わってしまう」ことに対して恐怖しなくていい、変わった自分を愛せばいい。と思うようになった。
鬱に罹患した人は、罹患前の生活を目指してはいけない。新しい自分として生活するようにしたほうがいいらしい。
だったら、磁気での電気治療(TMS治療)による不可逆な変容が起こっても、起こるかもしれなくても、それに対してあまり恐怖心を抱かなくても良いのかもしれない。

生きる意味。
生きる目的。
君たちはどう生きるか。についてたくさん考える。今までも。
もしかしたら、鬱病じゃなければ考えないのかもしれない。
でも、こういうことを考える自分は肯定している。
その中で、今の僕は、「ただ生きている」ことに意味を見出せない。
「ただ生きているだけ」なら死んだほうがマシ…とまではいかないけど、、、いくかも。
ただ生きて、ただただ生き延びて。なんになるのと。
何かを成すために、何かを残すために生きたいと、強く思う。

だとしたら、このまま脳活動に異常をきたしたまま漠然と生きるのであれば、一か八か、前に進んでみるのが良いのかもしれない。

自分は科学信者だからかわからないけど、自分のこのうつ状態ならびにブレインフォグが、心の問題ではない。脳内の化学物質のせいである。と強く思っている。
それが今まではセロトニンだったりの総量なのかと思っていたけど、慈恵医大の近藤先生曰く、ウイルスによる脳の炎症なのだと。kindleで本を買って読んでみた。(漫画でわかりやすかったが、それに対する不信感というか、騙されないぞという気持ちもある。がそれ以上に縋りたい気持ちが大きく、悔しい。わかりやすいコンテンツはいつの世もプロパガンダなどの民衆の操作に使われてきた。それにほだされているとしたら、悔しい)

この4年間、どうにかこうにか生きてきた。
多分、3分の1。もしくは2分の1は何も動けない状態だったと思う。
それでも焦燥感をガソリンに、後で振り返った時に空虚な年月だと絶望しないように生きてきたつもりだ。
結婚に際してプロフィールムービーを作るときに、「ああ、色々してきたんだな」と、安堵したのを覚えている。

辛かった。
一日カフェで4時間作業したら動悸がしてきて家に帰ったり。
夏休みの宿題表のように決まり事を決めて、せいぜい1.5時間くらいの作業ができたりできなかったり。
何もできないのだけどしなければいけない、したい物事をするために友達に家に来てもらい、無理やり、ガチで呻きながらメールを返信したり。
気づくと1,2週間平気ですっ飛んでいたり。

これが治るとしたら、どんなに素敵なことだろう。

自分の自我が芽生えたのは大学院休学時代。見えない鎖、常識や常識やかくあるべきのような縛りから解き放たれたのを覚えている。
鬱になったのはいつだろう。
自我の目覚めと鬱が関係しているのなら、鬱が寛解したら自我が眠ってしまうのか。
それともタイミングが近いだけで、鬱が寛解したら自我が目覚めたままフルパワーを出せるのか。

「聡い」人間でありたいと、最近強く思う。

「弱さを知っている人間である」ということに、誇りと価値を覚える。
でもそろそろもう良いんじゃない?
弱さから抜け出させてくれても良いんじゃない?

昨日、市役所に行ってうつの障害年金がもらえるか聞きに行った。
市役所には普段の生活ではまず付き合わないような人種の人がたくさんいた。
自分もこれらと同じなのかと思うと、悔しく、辛かった。
こんな人間にはなりたくない、こんな支援が必要ないくらい、ちゃんと稼ぎたい。強く思った。心の中の静かに、だが強く高温で燃える炎を感じた。

誰かにちゃんと相談してみようと思う。

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