生きるか死ぬか
TMS治療を始めてから、自分の中の「サバンナ大森」が優位になり、自身のやりたい事やりたくない事、自分が持っているカード、周りの環境などなどを0から見直す時間ばかりだった。
まるで、セーブデータが途中まであるゲームを初めてプレイする時みたいに、今とこれからの把握と算段に注力していた。
特に最近気が付いたのは、自分は「クリエーション第一主義」だということ。
先日帯さんの家に行き、もくもく会をオフラインでしようぜという建前で、大森の最近抱えている悩みや、アンテナを張っている技術話(たとえばAI)などをひたすら話す会「帯モック」をしてきた。
その中で「田舎の親孝行」というワードが出てきた。
僕のかなり偏った決して外には発信できない考えとして「田舎のヤンキーのようになりたくない」というのがある。
車や家を買って妻子供を養って休日はツレと遊んで平日は労働に勤しむ、そんなことで人生満足している「田舎のヤンキー」には決してなりたくない。そんかリテラシーの低い幸せ、「労働者」として100点満点の欲望で一生を終えたくない、という強い気持ちがある。
そのことを帯金さんに話したら、「田舎の親孝行」の話が出てきた。
「田舎のヤンキー」は演劇をしている人が誰しも目の敵にする、ライバルとして認識してるものだから、ある意味同格な存在なのだけど、「田舎の親孝行」は比較対象にもならないほど空虚な存在として、両者の間に無数に存在している。
手近な職を大きな不満もなく遂行し、多くはない賃金をもらい、手近で妻子を持ち、休日は地元の友人と遊び、年に数回旅行をして、節制で溜まった貯金で少し良い家電を買う。
このサイクルに何も疑問や不満も抱かず、強い欲望もないまま、ただ生きてただ死ぬ。
これが「田舎の親孝行」であり、田舎のヤンキーとは比較にならないほど無害で無価値な存在だと。(帯金さんはここまで言ってないが)
僕はこの話を聞いて、激烈に強い恐怖を感じた。多分誇張なしで「死」と同様の恐怖を感じた。
・自分にとって田舎の親孝行は死と同義である。
・大学で東京に来るまでは確実に「田舎の親孝行」側として生きていたのであり得た現在としての恐怖
自分の中にある強い欲求、何者かになりたい、はプラスになるための欲求ではなく、田舎の親孝行になりたくないというマイナスからくる欲求なのだなと分かった。
今自分は全く金を稼げてない。稼げてないから肩身も狭いし、自己肯定感自己効力感が地に落ちている。正社員として就職も2回したがダメだった。
一度気づいてしまったことはもう絶対に気づく前に戻れない。
自分は田舎の親孝行として生きていくことはできない。したくないではなく出来ない。
田舎の親孝行として、自分と周囲の幸せ感問題ない感の肥料になるためだけに労働し奉仕することはもう絶対に出来ない。イスラム教徒が豚肉を食べるくらい出来ない(←これは案外戒律破られてるらしいので違うか
だから、マクドナルドでアルバイトして日銭を稼ぐことも、受託してチャットbotを納品することも出来ない。
「田舎の親孝行になりなくないとして、じゃあお前は何をしたら満足するのか?何をしていたら恐怖しないのか?」と自問する。
そうした時に冒頭の「クリエーション第一主義」に行き着く。
創作活動こそが、知恵の実を食べた現代人がその時代に生きた価値を残せることで、何にも縛られない誰のためでもない自身のために自身から発せられる欲求のはけ口なのだと。
そう思っていること