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ユアウェルカムと言わせてクレパス

時は平成の昼下がり。
お気に入りの劇場、赤坂ACTシアターで観劇を終えた私は、東京メトロで家路につこうとしていた。その時、彼女は声をかけてきた。

『Excuse me.Can you speak English?』

突然のことに焦った私は咄嗟に「No!!」と強めに返事をしてしまった。学生時代から英語は特に苦手であり、語彙力もないのでYesと言ったところで結果は見えていたのだ。

しかし、パリコレモデル並みのスタイルを持ち、ハリウッド女優のような美しさの外国人が、目の前でとても悲しげな表情をしたのである。そんな姿を目の当たりにしてしまっては、誰だって見捨てるわけにはいかないであろう。私だってそうだ。
なので、乗り慣れてもいない東京メトロを、話せもしない英語で案内することにした。
ここで彼女の名前をキャサリンと命名する。

「カ、カモーン」

伝わっているのかどうかも分からない英語で、とりあえず着いてこいとキャサリンに伝え、どうにか行きたい場所を聞き出す。そして電車に乗り込んだ。

英語が話せない私と、あまり私を信用していなさそうなキャサリン。電車の中ではもちろん無言である。
人生を生きてきた中で、一番気まずい沈黙の時間だったかもしれない。
そして、その人生で一番気まずい沈黙の時間を使って、ある一つの言葉を必死で思い出そうとしていた。
きっと言われるであろうThank youの返し、そう

「どういたしまして」の言葉を。

今ならイージーに思い出すことが出来るが、何故かこの時ばかりは頭の中に全く浮かんでこない。
顔は平然を装い、まるでモナ・リザのような微笑みを残したまま、頭の中では容量の少ないタンスの引き出しを必死にこじ開け続けた。
一点を見つめたまま、モナ・リザの微笑みを浮かべ、何かを考え続ける私を見てキャサリンはきっと聞く相手を間違えたと思っていたであろう。
しかし、ようやく思い出すことが出来たのである。

(ユアウェルカム!!!!!)

あの時ばかりはキャサリンと握手がしたくなった。もちろんすることはなかったが。
そして、ようやくキャサリンお目当の地へ辿り着く。東京メトロと云えば、出口が蜂の巣の如く複数あり、間違えれば一寸先は闇。
見捨てるわけにはいかないと、駅員さんを呼び止め、正確な出口を尋ねる。

ここで、駅員さんとキャサリンがイングリッシュで会話を始めた。
流暢な英語と軽やかな英語が奏でるコンツェルトはとても素晴らしかった。
実を言うと私も仲間に入りたかったが、空気を読むスキルは人一倍あると自負している為、やめておいた。

そして、キャサリンともお別れの時間である。
「ユアウェルカム」の言葉は喉元までたどり着いており、準備万端。

しかし、駅員と話し終えたキャサリンは凄まじい脚力を見せつける豪快なダッシュで、私のことを一瞥もくれる事なく走り去っていったのである。
喉元まで到達していたユアウェルカムの言葉を吐き出す術もなく、残された駅員と少しの沈黙の後、肩を落としてその場を後にする私の姿が想像着くだろうか。
まるで、ジャイアンにいじめられたのび太くんのようでもあり、ゴッサムシティ在住の住民のようでもあった。

だが、悲しいとかの感情はそこにはなかった。
とにかく、兎にも角にも、私はユアウェルカムと言わせて欲しかったのだ。
必死に振り絞り、どうにかして引っ張り出してきた言葉をどうしても言いたかったのだ。

しかし、その言葉を吐き出す事は残念ながらできなかったため、東京駅の本屋の中で販売していたクリミアソフトクリームを食べて帰った。めっちゃ美味かった。

ユアウェルカムと言えなかった敗因としては、感謝されることを前提に考えてしまった事や、イングリッシュが離せない故、信頼関係を築くことが出来なかったからでしょうか。

この経験からの学びは、感謝される事が当たり前だと思わず、しかし、他者への感謝の気持ちを忘れず生きていきたいと思った所存です。


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