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目ぇ回るくらい温かく、ゲェ出るくらい透き通った愛の話 ー栗鼠とそら豆と花のある世界ー

男性ブランコのコントライブ『栗鼠のセンチメンタル』を見た感想、そして個人的な解釈、妄想です。
おそらく全部的外れです。
誰かに押し付けるものであるはずもこれが正解だと主張するものであるはずもなく、ただ美味しいお肉を送ってもらったから自分好みに料理して有難く頂こうというような心持ちです。
本当に素敵なライブだったので、自分のための備忘録を兼ねて。

※以下ネタバレ満載です。念のためお含み置きを。


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今ライブには、横断するテーマのようなものを感じました。
『変わるものもあれば変わらないものもある』、そして『いきものはみんな同じで、みんな愛しい』。
この二点について、感じたことや考えたことをつらつらと書いていこうと思います。


『変わるものもあれば変わらないものもある』
まずコント間の時系列を考えてみたいと思います。
(そんなものないかも知れませんが…。)
大枠は、博士に未来を託されたデルタの物語であると仮定します。
1本目の「見たことのない景色」はデルタが生まれるずっと前のお話。
花が咲き、木が覆い茂り、でっかいそら豆にさほど驚くこともない世界でした。
とある男は見たことのない景色を見ようとそれを土に埋め、芽が出るのをひたむきに待っています。
女はそんな男に"み"かつきながらも、そのそら豆とともに人生を歩みます。

そして途方もない時間が流れ、世界から花が消えました。
ひともいきものもいなくなり、残されたのは博士とデルタだけ。
様々な感情や知識を与える博士とその全てを吸収していくデルタの様子が、6本目「博士の純情の愛情」で描かれました。
デルタは博士が読んでくれる絵本が大好きでした。
コントはそれぞれ絵本の内容であり、そうすることでストーリーの一部になっていると解釈しています。
そして3本目「花のない世界」でデルタは花の妖精フラーと出会い、博士に託された花を咲かせました。
それに呼応するように、大きな豆の木が生え、いのちが芽吹き、あたたかな世界が広がるというラストに繋がります。
以上が、私が思う全体の関係性です。

変わるものは、世界の有り様。
あの男女がそら豆を埋めた時とは全く違います。
花も人も、生命が存在しません。
デルタも実際にはロボットだし、博士だってホログラムなので本当にゼロ。
ひどく寂しい世界です。
しかし、全てが変わってしまっても変わらないことがありました。

『思えば夢は叶う』ということ。
一向に豆の木が育たず、女は男に言いました。
「見たことのない景色見れなくて残念だね。」
男は女と赤ん坊のほうを眺め、こう返しました。
「見たことのない景色は、もう見てるよ。」
天上の世界に行けなくても、男が思った幸せは叶ったのです。
n年後のデルタは、博士がいなくなった世界で博士が語った未来を追い続けました。
そして花を咲かせ、豊かな森を育み、いのちに満ち溢れたそれを作りました。
博士と交わした約束がそうさせたのです。

『むかつく』こと。
女はロマンを語り遠い目をする男にむかつき、n年後のデルタは博士の煽るような表情にむかついていました。
どんなに世界が変わろうと、生きているとむかつくことがある。
どんなに世界が変わろうと、いきものは感情を以って交差する。
どんなに世界が変わろうと、いきものは感情とともにある。
人間も機械も関係なく、いきものをそれたらしめているのは感情なのでした。

『生きる』ということ。
僕は機械だから生きるという言葉はそぐわない、と肩を落とすデルタに博士は語りかけます。
「人も機械も、ほかのいきものも、自分で道を切り拓いていかなあかんねん。そんなもん、『生きる』やろ。」
血が通っていなくても、がむしゃらにいのちを全うしていれば、それは生きていると形容できるのです。
人間も機械も花も木も栗鼠も、姿形に関係なく、みんな生きているのです。

変わっていく世界の中で、変わらないものもたくさんある。
そんな当たり前をそっと掬い上げるような演出に、胸がじわりと温まりました。


『いきものはみんな同じで、みんな愛しい』
2本目「怪物のメランコリー」、3本目「花のない世界」では、性質の異なる両者が実は共通した部分を持つことが強調されていました。
怪物のゼゼと人間のカメヤマくんは種族も言葉も心臓の数も違いますが、「お互いを友達やと思ってる」ところは同じです。
機械のデルタと妖精のフラーは、ともにソーラーパワーを活動の源とします。
彼らが特に明示されているだけで、登場したほかのキャラクターたちも本質的にはみんな同じでした。
見かけや性質こそ違っても、みんな体温があって、みんな愛しさに包まれていました。

豆の木を育てることに精を尽くす男、
人の姿をしたロボットのデルタ、
無力なドアストッパーに愛着を感じる怪力のゼゼ、
花の妖精でありながら下町口調のフラー、
今でこそ氷の女帝と呼ばれるも少女時代の夢はソフトクリームになることだったえっちゃん、
ずっと失礼なのになんだか憎めないペットショップの店員さん。

みんなちぐはぐだけど、ひとつのいのちでした。
みんな抱きしめたくなるような温もりを滲ませていました。
みんなその一瞬一瞬を生きていました。
みんな愛おしい存在でした。

彼らはみんな、誰かを愛し、誰かに愛されていました。
迸るような愛がそこには広がっていました。
誰かの、誰かに向けられた愛が、とめどなく溢れ出していました。

「愛」という極めて抽象的なものを、直感的にこれだと捉えられたのは初めてでした。
今まで見たどの本、映画、風景よりも、確かな説得力がありました。
涙さえこぼれそうでした。
終演後のあの満たされた気持ちは、きっとずっと忘れられません。
面白いだけじゃない、それ以外の感情を揺さぶられたコントライブでした。


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最後に、タイトルの栗鼠について。
なぜ栗鼠なのか。
ずっと悶々としていましたが、思い当たってしまえば割とあっさり腑に落ちました。
栗鼠は冬眠前に木の実を埋めます。
そうして厳しい冬を越した先で、暖かな春を迎えます。
大昔のあのそら豆は栗鼠の「木の実」であり、栗鼠は再びいのちが芽吹くその時まで長い眠りについていたのではないか。
だから最後の最後に、それを見届けるようにデルタの前へ現れたのではないか。
そんなことを思いました。
そして、栗鼠のセンチメンタルは、愛によって再び芽吹いたいのちによって、きらきらと、さらさらと、消えていった。
のかもしれないとも、思いました。


本当に本当に、目ぇ回るほど面白くて、ゲェ出るほど深い90分間でした。
年末のてんどん記が俄然楽しみです。


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