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【MBTI考察】類型論との健康的な付き合い方を模索する


まえがき

近年類を見ない速度で流行しているMBTI、及び16タイプ型性格診断。

人間は型に嵌めて自己や他者を理解することが大好きな生き物なので、「流行するのではないか」と踏んでいたが、まさかここまでのスピードで社会に受容されるとは。驚きである。

そんなMBTI、及び16タイプは、根拠となる理論がユング心理学に由来している為、血液型診断に比べれば科学的とされることが多い。

しかし、実際にはどの程度信頼できるのか。本稿では、MBTIや類型論の限界、支持者と反対者の問題点、そしてそれらとの健康的な付き合い方について考察する。

類型論の限界

MBTIやその他の16タイプ型診断(例えば16パーソナリティや心理機能診断)は、確かにユング心理学に基づいているが、科学的な再現性や客観性に乏しいと言わざるを得ない。

Classic Jungianならまだしも、MBTI診断及び派生診断(16パーソナリティや心理機能診断)におけるタイプ分類は、二分法ロジックを基本とした類型論であり、科学として律するために必要不可欠な再現性・客観性が全く担保されていない。

そもそもの話、16パーソナリティや心理機能診断は、主観で答えるアンケート式を取っているので当然と言えば当然だが。

(よくこれに対する反論として、『私は客観的に自己を分析している』という愚鈍な詭弁が挙げられるが、それはあくまで“主観の中での客観”であり、本質的な客観性とは全くもって異なる)

つまり、科学的な学問としての側面を全く持ち合わせていないため、心理学や社会学と同等に扱うべきものではないのである。学問として享受するべきでないし、限界がある。

「これはちゃんと科学的な学問だから〜」とか
「性格分析に基づいているから信頼性がある」と言う風に甘い判断をしてのめり込むのは危険であるし、正しくない。

別に科学的である必要性はないし、否定するつもりは毛頭ないが、『科学的に根拠がある』と思い込んで妄信するのは駄目だ、と言う話である。

類型論信者の問題点①
人間関係に関連する範囲で

MBTI信者の中には、その診断結果に過度に依存し、日常生活や人間関係においてMBTIタイプを基準に判断する人が見受けられる。
というか、界隈を除いた一般的なMBTIオタクの多くはこの範囲から逸脱できていない。


しかしながら、そのような行為は明らかに正しくないし、自分と他者の可能性を狭める。
例えば、恋人や友人をMBTIで選ぶようなことは、確かに何も判断基準を設けないよりはある種有効かもしれないが、MBTI“だけ”に頼って「会う」「会わない」を判断するのは余りにも勿体無い。


また、「俺はISFPだから遅刻しても仕方ない」といったように、自己改善の余地をMBTIに頼って正当化するのも問題である。MBTIがどうだろうと欠点は欠点なのだから、改善すべきであるし、タイプを言い訳に用いるべきでない。

「俺Pだから仕方ないんだよね」は「俺計画的じゃないから仕方ないんだよね」と言っているのと同じである。
あなたが感情的に傷つけられた時、「俺思考重視で感情蔑ろにしちゃうから仕方ないんだよね」と言われてみろ。はっきりいって餓鬼っぽいし、そんな人間とは付き合いたくないと思うだろう。

人間が誰しも苦手とする、しかしながら成熟する上で極めて重要な、「自分の欠点を認めて改善する」というタスクを、MBTIというベールで包んで視界から外してしまうのは成長の機会を自らドブに捨てていることになるし、MBTIの本来の目的の一つである「自己成長」を満たさないことになる。本末転倒である。

MBTIはタイプ付けに留まらず、さらにその先にあるフィードバックを重視している。
自己分析の最中で歩みを止めて思考停止に陥るのは不適切な使い方としか言いようがない。


さらに、MBTIにおける相性論は、インターネット上のユーザがソシオニクスから流用して定義づけたものであり、そもそもの話MBTI及びユング心理学には相性論が存在しない。

にもかかわらず、「私あの人と性格合わないんだよね」「それINFPとESTJだからじゃない?」といったように、相性論を信じて他者を簡単に判断してしまう愚直な人間が多い。このような使われ方は、相手の多様な側面を見落とすことに繋がる。

相性論があることでよりキャッチーになるし、エンタメ性は上がるのだけれども、その根拠は薄いどころかほぼ0であることを認識する必要性がある。


類型論信者の問題点②
就職面接に関連する範囲で

MBTIタイプを理由に採用を決定することも同様に問題である。
「あなたのMBTIは何ですか?」「ENTPです」「不採用」といったような使われ方は全くもって正しくない。

自認診断は労働者が自らの進路決定に用いるくらいがちょうどいいのであって、雇用側がそれを使い出したら終わりである。
MBTIという、学問的に問題のある主観的指標ではなく、客観的な指標(例:SPI)で判断するべきである。

(それを言ったらじゃあSPIが形骸化している点や、適性検査に関してはどうなんだ、と言う反論が聞こえてきそうだが、今回はその点に関しては省く)


他者理解への有効な活用方法

確かに「MBTIの力を借りて」他者を理解しようとすることは別に良いのだけれど、最終的な終着点は自己で編み出した言語化フィールドでなくてはならない。

「Pだから」「Jだから」「FiとTeは合わないから」のように安易なタイピングで思考を終わらせるのではなく、それを自己と周囲に説明できるように、本質的な部分までたどり着く必要性がある。

「TJだから」よりも「効率を大事にするから」の方が絶対的に周囲に伝わる表現としてベストであるし、なんならその主語をMBTIのタイプではなく当人の名前に変えれたら尚良い。

そこから「TJだから」の枠組みを超え、深い分析を行うことによって、「“彼(当人の名前がふさわしい)“はこう言った点においては効率を大事にしているから、こうした方が良いな」と、その人個人に最適化された説明文として自己の脳幹にインストールすべきであるし、周囲にもその説明文を用いて説明すべきである。

他者理解としてMBTIを使う際は、それはあくまでも途中式であるべきであり、答えであってはいけないのだ。答えにするにはあまりにも信頼性がなさすぎる。

繰り返すようだが、「出会い系で会った人がINTJだったから会うのやめた」というように、タイプだけで他者を判断し、可能性を狭めてしまうのは、非常に勿体ないことである。


社会を揺るがす危険性

就職面接や交際相手を選ぶ基準にまでMBTIが入り込んでいる現状が定着化してしまったら、当然多くの人間は【大衆にウケる】MBTIを提示するようになるだろう。

「私は本来はINFPだけど、この外資系企業においてはENTJが最もふさわしいからそうやって言おう....」

「俺ENTPだけど、巷で性格悪い認定されてるし、モテる為にESFPってことにするか」

こう言った風にペルソナを被り、それを自己開示として用いる風潮が蔓延してしまったら、それはMBTIが担うべき「多様性を尊重する風潮の促進」と「自己開示する難易度の逓減」の両者をかえって阻害する。

「性格」という本来多種多様であるべきものが、無意識的に社会通念として16の型に分けられるようになってしまうし、本当に生きづらい社会が出来上がってしまう。

「多様性」が声高に主張される現代社会への反逆とも捉えることができるが、いずれにせよリベラルな現代には似合わないものであるし、信頼性に欠ける流行り物によって人間の本質が隠されるようになるのは正しくない。憤慨するレベルである。

アンチ類型論の問題点

一方で、MBTIに対して過度に批判的な立場もまた問題である。

そもそもMBTIは性格を大まかに把握するツールであり、グラデーションの中で自己を位置付けるものである。
そうであるのに、
『MBTI=性格をたった16に無理やり分ける血液型診断的なオカルト』
と決めつけ、その価値を認めないのは極端であるし、考えが甘いと言わざるを得ない。

それに、全てを科学的根拠に基づいて評価する必要はない。
MBTIは”使い方と捉え方を間違えなければ“ある程度有用であり、だからこそ世界中で親しまれ、続いてきたわけであるから、その点は素直に認めるべきである。

類型論との健康的な付き合い方とは

MBTIを盲信することなく、一歩引いた立場でエンターテインメント的に楽しみ、自己分析や他者理解に”ある程度“活用することが、類型論との健康的な付き合い方である。
そしてこれは唯一無二の答えであり、多くの人間が辿り着けていない本質である。極端に突き詰めず、参考程度に活用することが重要な訳だ。

MBTI診断を人間関係やキャリア選択の補助ツールとして利用することは有用であるが、それに頼り過ぎないように留意しなければならない。

類型論だけで人間関係を判断するのではなく、他の軸でしっかり言語化し、捉え直すことが必要なのだ。


余談

興味深いことに、韓国においては三つ前の項で定義した『本当に生きづらい社会』が出来上がりつつある。
就活にも恋愛にも、本格的にMBTIが幅を利かせ始めているというのだ。

何度も言うようだが、人間関係においてMBTIだけで相手を決定づけることは非常に勿体無いし、企業側がMBTIを採用基準に用いることは、被雇用者の可能性を不当に制限する行為である。

このような使われ方は、MBTIだけでなく類型論全体やユング心理学に対する負のイメージを拡散することになるし、全ての方向にとって健康的とは言えない。
最も避けるべき事態の一つである。

まとめ

いつだって物事が流行する時は、表面だけが先行し、本質は置いてけぼりになるものであるし、
流行するものに対して逆張る人間も必ず出てくる。

そのため、仕方ないと言えば仕方ないのだが、今の社会で用いられているような類型論との付き合い方が進むようだと、それは社会全体の根幹を揺るがす大きな荒波となり、その濁流は先人たちが築き上げてきた社会通念を飲み込む可能性がある。

もちろんMBTIはエンタメ的に活用する分には興味深いものであるし、筆者も歴然としたMBTIオタクの一人である。

しかし、“適切な付き合い方”を見誤ると、自分だけでなく周囲にも大きなダメージをもたらす。
MBTI、ないしは類型論をどのように扱うべきかを熟考する一つの指標として、この文章を用いて欲しい。

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