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『(あたらしい)ジュラシックパーク』演出後記

はじめに

南極ゴジラの第5回本公演『(あたらしい)ジュラシックパーク』の演出と脚本をしていたこんにち博士です。演出後記!

今回はいつにも増して、急いで書きます。いま現在、千秋楽から2日たった2024年4月2日です。熱が冷めないうちに、書きたいので、ウオーって言いながらキーボード打ってます。

演出後記に入る前に、本公演に関わってくれたすべてのみなさま、劇場まで足を運んでくださったお客さま、配信見てくださったお客さま、すべての方に感謝申し上げます。ありがとうございました。

そして、シャーク瀬安勇志が撮影監督・二鳥ユガミノーマルが編集を務めた、ビデオ版『(あたらしい)ジュラシックパーク』はまさにいま、vimeoにて配信中です。視聴チケットを一度買ってもらえたら、4月30日までは何回も見ることできますので、この公演観てない方、ぜひそちら見てから読んでもらえると嬉しいです。

それじゃあ劇の話に入ります!

(あたらしい)って?

見栄を切ってタイトルを『(あたらしい)ジュラシックパーク』にしてしまったので、「あたらしい」を感じる作品にする必要がありました。プロト版の脚本の冒頭はこんなイントロで始まってます。

(あたらしい)ジュラシックパークは、あたらしい神話であり、あたらしい地車であり、あたらしいインターネットであり、あたらしい動物であり、あたらしい都市伝説であり、あたらしい青春群像劇である。南極ゴジラが、あたらしいカルチャーになるための一歩でもある。

プロト版の冒頭ページ

斬新な表現をしている映像や展示を参考にしたり、あたらしいって=古いことなんじゃないかって思ってみたり、劇団員10人にとっての「あたらしい」をホワイトボードに羅列してみたり、まあなんやかんやいろいろやったんですけど、結局あんまり答え出なくて、でも、これはあたらしいかもしれない・これをやったらおもしろそう、みたいなのをいろいろ劇に盛り込んでいくうちに、結果的にあんまり存在しないタイプの演劇にできたんじゃないかなと思っています。

劇場主催の初日感想トークに来てくださったアナログスイッチの佐藤さんが「カルチャー雑誌のFUDGE(とかPOPEYE)みたいだった」と言ってくださったのも嬉しかったです。僕らがやってるのはめっちゃ演劇ではあるんですが、「演劇」みたいな枠組みを飛び越えて、南極ゴジラっていうカルチャーとして存在できるようになったらいいです。いつか!

あともうひとつ、最初から決めていたのは、物語の時系列を2024年にするということ。登場人物をみんな自分達と同世代にするということ。南極ゴジラでやる物語は、400万年後だったり、100年前だったりすることが多かったのですが、今回はまさにいま起こっている話にしたくって、登場人物たちが抱えるコンプレックスや苦難も、僕だったり僕の周りのいわゆる若い人たちが抱えている事柄にしました。いま映画館でやっている「DUNE」とか、クリストファーノーランのSF映画とか、Netflixでも配信がはじまった「三体」のような、おれらの暮らしてるこことは全く別の舞台バーン!世界観ドーン!みたいなSFは、いまの僕らには技術的にむずかしい・・。なのでどれだけ現実と地続きな点をつくるか、が僕の課題です。お客さんそれぞれの普段の生活がロイター板みたいになって、僕らと一緒にバーンって飛べるような、そんな物語にしたいと常に思ってます。

家でどうするか話し合ってる

(ひとまずは)ジュラシックパークについて

ジュラシックパークを舞台にした作品は今回で2回目なのですが(第1回本公演の「贋作ジュラシックパーク」でもジュラシックパークが舞台の物語をやっていた)1回目のときに比べると、ジュラシックパークとは割と距離をとった作品になりました。

僕がそもそも、ジュラシックパークや恐竜のことがすごく好きなので、1回目の時は恐竜への愛を詰め込んで、ジュラシックパークで働くことへのロマンも持って、物語を書いていったんですけど、今回はあくまで舞台としてジュラシックパークを捉えました。

脚本を書き始める少し前に『エドワード・ヤンの恋愛時代(4Kレストア版)』を新宿武蔵野館で見て、そのときなんか、これや!!って思って、その日のうちに今度は日比谷のTOHOシネマズでもっかい見て、2回目はすんませんちょっと寝ちゃったりもしたんですけど、これを(あたらしい)ジュラシックパークではやったらええんや、って。『エドワード・ヤンの恋愛時代』は、台北を舞台にした2日間の出来事を10人くらいの若者たちの目線で切り取った映画で、タイトルに恋愛って入ってものの、テーマはもっと若者の苦悩だったり、焦燥感だったり、ダサさ、みたいなのを感じて、生活がすごく瑞々しくて面白いなと思ったんです。

今回の作品も、劇団員10人がそのまま等身大の若者を演じて、それぞれがコンプレックスだったり悩みを抱えていて、そんなかれらの生活の舞台がジュラシックパークである、ってことに重点を置きました。特殊な空間を舞台にしてるけど、あくまで主役は若者側にある。登場人物はジュラシックパークにロマン持ってる余裕がないくらい目の前のことでいっぱいいっぱいというか。

もう一つ、ジュラシックパークのテーマである「テクノロジーの暴走」を今回のSF的なテーマに設定しようと決めました。改めて映画ジュラシックパーク面白いなって思うのが、あの映画って恐竜はあくまで要素の一つでしかなくて、電気で全部を制御してるシステムとか、欠陥が多い施設とか、科学技術にすべてを委ねることの代償みたいなのをいろいろな角度から描いてて、しかもそれがめっちゃスリリングで・・。

テクノロジーがいっぱい出てきて、それが暴走する、それにどう立ち向かう?みたいなところを物語のテーマにしました。

補足)
ちなみに、小型草食恐竜管理室が飼育している4種類の恐竜、トランポリン・ゲシュタルトサウルス・ギミック・ポテトヘッドはすべて実在しない架空の恐竜です。もちろんジュラシックパークにも登場しません。二鳥が誤ってナショナリボソレメサウルスの胚が混ざったクリームを塗ってしまいますが、ナショナリボソレメサウルスも同じくオリジナル恐竜です。恐竜が好きなゆえに「いやこの種類こんな動きせんしな・・」みたいになってしまいがちなので、はなから存在しない恐竜にしてしまうのは個人的大発明でした。こっちの方がすごくすごく楽しかった。なお、オリジナル恐竜のビジュアルや一部名称は、“恐竜が絶滅しなかったらこう進化してたんじゃないか“っていうのを科学的に考証した本「新恐竜」(著ドゥーガル・ディクソン)をかなり参考にしました。

まだ脚本書けてない頃の稽古

4話構成(と、ずっとつづいていくこと)


この時点ではまだぜんぜん脚本書き始めてすらないです。決まってるのが、タイトルと登場人物と、ジュラシックパークをあくまで舞台として扱うこと。どんな構成にしようかなというところで少し悩みました。

前述の『エドワード・ヤンの恋愛時代』は2日半という限られた期間で同時並行的に物語を描いて群像劇にしていました。(あたらしい)ジュラシックパークもはじめ同じようにしようかと思ったのですが、なんか新しくないし、登場人物の視点を変えて章立てにするのもよくあるしなあ(羅生門とか桐島、部活辞めるってよのやつです)、「あたらしさ」の部分出すなら構成だよなーとか頭の中でぐりぐりしました。

この頃ちょうど南極ゴジラは『南極ゴジラの地底探検』の福島公演に向けて調整中で、稽古が終わってみんなで中華屋に行ってた時に急に、ドラえもんみたいに、テクノロジー単位で割って4話でやることが決まりました。テクノロジー単位がいいかもっていうのは自分でそうなった気もするし、瀬安あたりがこれはどう?って出してくれた気もします、ぜんぜん記憶が定かじゃない。でも、テクノロジー4話構成が決まってからはめっちゃ早くて、注文してた中華料理が出てくるまでの時間で、1話お天気ボックス→2話おおかみ男クリーム→3話人間製造機→4話エアポッツというのも決まりました。ストーリーはまだぜんぜん見えてなかったのですが、なんかほんまに普段使ってるやつが最終話のタイトルになってたらオチ感あるんじゃない、とかそれくらいのトーンで決めました。

この物語が実は1,324話あって、いま上演するものはその中のめちゃくちゃ冒頭なんだっていう設定はすごく後でついたものです。脚本の真ん中くらいまで書き進めてるときに、もっと推進力やテーマをくっきり出したいなと思って、全1,324話設定を追加しました。ちなみに、1,324話という数はドラえもんを意識して決めた数です。でもなんかいま「ドラえもん 原作 話数」で検索したらぜんぜんちゃう数字やった。あれ?こんにち寝ぼけちゃってたのかしら。なので結果なんの理由もない数字です。

各話ごとのタイトルバックとロゴのカラバリは絵夢さんが制作。とんでもないスピードで作ってた。

参考①:ドラえもん

いつものように、参考にした作品群を挙げておこうと思います。結構数が多くて、「ストップ・メイキング・センス」など、今回だけでなくこれから先もずっと頭に残り続けるであろう作品もありましたが、演出後記では特に重要な2つに絞って、書いておこうと思います。

まずは、ドラえもん。

「お天気ボックス」
「おおかみ男クリーム」
「人間製造機」

3つとも、ドラえもんに登場するひみつ道具です。今回の世界観に合わせてやや脚色していますが、ひみつ道具のつくりや機能はドラえもんを踏襲したものになっています。

湾田ほんとの名前や、うそをお守りのようにしているというところはドラえもんの「ウソ800」からインスピもらいやした。ほんと以外の人物もドラえもんの登場人物に当てはまるようにキャラクターの特徴をつけていきました。中でも、ほんとと関係が深い、明星・ドゥドゥ・浮卵博士の3人はドラえもんを3人で因数分解した登場人物です。明星はドラえもんの指導役の部分、ドゥドゥはドラえもんの友情の部分、浮卵博士はドラえもんのなんでも叶えてくれる部分をそれぞれ担ってます。

ちなみに、世界観の設定として「ドラえもんが存在しない世界」ということにしていて、代わりにドラベースが人気漫画になっています。小道具でドラベース手に入れようとしたんですが、ドラベースっていま手に入らないんですね・・衝撃。結局なんか、ドラベース傑作選みたいなのを買って、湾田に読んでもらってました。

参考②:カート・ヴォネガット(・ジュニア)

今回脚本を書くにあたって最も影響を受けたのが、1922年生まれのアメリカの小説家・カート・ヴォネガットです。代表作の「タイタンの妖女」は物事の捉え方として(あたらしい)ジュラシックパークの根底になりました。

「タイタンの妖女」や「スローターハウス5」という小説で、独特な時間の捉え方が出てきます。それがワンダーが話す「時間軸を横から俯瞰的に見る」というものです。「過去」と「現在」と「未来」がいっぺんに存在していて、それらを同時に経験することができる。「タイタンの妖女」には、宇宙で事故に遭ったことがきっかけで過去と未来を全部知っている状態(そして全部同時に経験している)になる男が出てきます。男はその力を使って神様みたいな振る舞いをして、主人公や人類に啓示をしていくのですが、その力を持ってるがゆえのさみしさみたいなものも感じる魅力的なキャラクターです。ワンダーは、湾田ほんとの人生すべてをアップデートさせた存在で、計算によってこれからの人生で何が起こるかをすべて知っているキャラクター。一見最強に見えるんだけど、それがだんだんと弱点に見えてきたらいいなと思って書きました。

ワンダーが「あたかも偶然を装いながら、誰もが予定通りの人生を進んでいる」ということを言いますが、演劇自体がまさにそうだなと思っていて、俳優があたかもはじめて経験するみたいにやってることも、実は稽古で何百回とやってきてることだし、でも湾田ほんとがそんな枠組みから飛び出そうとする。そんな展開になったらすごくいいなと思って、ラストシーンでは物語や演劇自体を踏み越えてくるようにしました。

2話でシャークウィークが矢を放ってカモメが落ちてくる場面。あそこはすごくカートヴォネガット的な表現で、カモメが落ちてきた時に、お客さんが上を見上げると横にハートが吊られていて、「どの場面でハートが落ちてくるんやろう」っていうのを頭の隅で想像しながら劇のつづきを見てもらえたら、「過去」「現在」「未来」を俯瞰的に・同時に見ているっていう、ワンダーの見え方と重なるやん!と思ったんですが、ちょっとここの表現は中途半端やったなと、今後の課題ポイントの一つです。

「タイタンの妖女」ほんとに面白いので興味ある方は是非とも読んでほしいです。泣いちゃうと思います。

その他、今回の脚本・演出で参考にした作品の一覧です。

(あたらしい)ジュラシックパーク参考作品群

映画『エドワード・ヤンの恋愛時代』(エドワード・ヤン)
映画『天才マックスの世界』(ウェス・アンダーソン)
映画『逆転のトライアングル』(リューベン・オストルンド)
映画『ジョジョ・ラビット』(タイカ・ワイティティ)
映画『ストップ・メイキング・センス』
アニメ『グーフィーのスキー教室』
小説「タイタンの妖女」カート・ヴォネガット
小説「生まれつきの時間」ファン・モガ
本「そのときどきで思い思いにアンカーを打つ。」仲西森奈
本「新恐竜」ドゥーガル・ディクソン
音楽「Day After Day」パソコン音楽クラブ
アルバム「GOOD POP」PAS TASTA

左が「新恐竜」

南極ゴジラのこと

今回の公演、オール南極ゴジラキャストだということもかなり大事だったので書いておきますね。

僕たち劇団化してから、本公演は今回で5回目だったのですが、劇団員キャストのみでの演目は『南極ゴジラの地底探検』以来の2回目になります。地底探検は、そもそも劇団員だけでやってみるというのが大きかったので、ずっと10人で舞台上にいて、10人でいろんな世界を旅していくことに意味を見出していました。

今回2回目なので、地底探検よりももっと劇団としての強さが見えるような、10人というくくりではなく、一人一人の魅力がしっかり伝わって、かつ、集合したときに映えるようなものにしなくちゃなと思っていました。

今までとは違ったスタートを切りたくて、第1回本公演『贋作ジュラシックパーク』の脚本を使って、劇団内でオーディションみたいなこともやりました。オーディションとはいってもみんなで集まって、役を入れ替えながら読んでみるだけだったのですが、それでもなんか、ちょっと緊張してましたね、みんな。

10人それぞれがどんなポジションの役をして、その役がどんな名前なのか、それが決まってからは、俳優の見せ方だったりどんな演技をしてもらうか、みたいなので悩むことは1回もなかったです。10人それぞれへの当て書きも、今回いままでで一番よく書けたなと感じてます。ユガミ瀬安あたりへの当て書きは百発百中で命中するのでいいとして、九條えり花のアルミ、TGWのメガマック、井上耕輔の明星はいつも通りの感じではあるものの、今回すごく良かったです。もちろん本人たちの魅力が大きいですが、キャラクターと普段の本人の距離感がよかった。

あと最近の公演で、僕こんにち、えり花、TGWはポイントポイントでちょっと出てくる役が多かったので、今回はレギュラーメンバーにしてみました。自分もいっぱい出るぞ、と決めていっぱい出番増やしたのですが、演出チームの近藤聡一朗・藤井憂憂コンビにかなり苦労をかけながら稽古を進めることになり、それでもやっぱり楽しかったでこれからも出るつもりです。

和久井千尋といえば、大声というか、いつも怒鳴りまくっている役が多かったので、今回の浮卵博士のようなダウナーな感じは南極ゴジラでは初めてでした。古田絵夢は「ホネホネ山の大動物」の“点々“以来、地底探検の金飛来、怪奇キューのナショナル、と、どんどん当て書きがピンポイントというか、絵夢さんの中にある一部分に局所的に絞ってそれを誇張させたキャラクターになってきています。揺楽瑠香は地底探検につづき、最初物語の枠外というか、語りとして存在していて、だんだんとストーリーに入ってくる役でしたが、本人的にはもっと舞台上で何しても許されるような役がやりたいんだと言ってました。たしかにワンダー噛んだりとちったり、絶対にできないキャラクターだったもんね。

なんのシーン?
よくこの状態になっている

湾田ほんとのこと

「(あたらしい)ジュラシックパーク」の主人公は湾田ほんと。この劇は、湾田ほんとの存在そのものが、作品の重要な要素になっています。南ゴジの劇で、主人公が中心にどんと立ってることも結構珍しくて、それを端栞里が演じているのはでかかったです。

湾田ほんとは、お客さんが自分の中にある一面と、湾田ほんとを重ねられるような主人公にしたくて、なので性別だったり年齢だったりを、ちょっとふわっとさせたいなと思っていました。そういう意味で、端栞里という俳優は、性別や年齢の垣根を自由に行ったり来たりできて、演技も揺れが強みというか、YESをまっすぐYESと言わないところがあるなと思っていて、それが湾田ほんとにピッタリだなと思いました。(というか、順番的には端栞里が主人公をやることになった結果、湾田ほんとがこういうキャラクターになった、という流れなので、そりゃそうやろ!って感じですね)

のび太をオマージュした王道の主人公をややデフォルメした演技でやりつつ、自分がクローンである可能性に惹かれているというちょっといびつな一面も表現しなきゃいけないかなりむずかしい役だったと思うんですが、本人は悩んでる素振りもなくケロッとしてて、それがすごく頼もしくて、かっこいいです。尊敬してる。

これが端栞里

藤井憂憂と近藤聡一朗のこと

さいごに、今回の公演をやる上でなくてはならない存在だった演出助手のふたりを紹介しておきます。

藤井憂憂さんと近藤聡一朗くんのふたりです。藤井ちゃんは地底探検の頃に演出補佐として南極ゴジラに関わってくれて、怪奇星キューは俳優として出演し、今回は演出チームで参加してくれてます。24年からあたらしい芸名になって、藤井憂憂さんになってますのでよろしくお願いします。近聡(近藤聡一朗のニックネーム)は、前作怪奇星キューから演出チームで参加してくれていて、この春からとある劇場の職員になります。

今回の演劇が、ちょっとメタ的というか、物語そのものと並行して、この物語を形作っていく様も見えるようになっていて、そういう目的もあって演出チームの2人もたくさん舞台に登場していました。カーテン開け閉めや物の転換、近聡はトランポリンの操作をしていて、憂憂ちゃんはスチールの追加になった2本の腕なんかも担当してくれていました。

ふたりとも作品のクオリティを上げることに妥協がなく、アイデアも豊富で、冷静で、頭がよくて、僕にないものを全て持っています。

ふたりだけ名前を挙げましたが、南極ゴジラの舞台にはほんとうにパワーとアイデアを持った素晴らしいスタッフが集結しています。今回もそうですし、これからもこのチームで面白い劇を作っていきます。

チーム南極ゴジラの写真、ここには映っていませんが、ティザー映像で畑野亮くん、写真家の濵本奏さん、ヘアメイクの金納さん、劇中映像で白井創さん、などなど多くの方で力を合わせて作りました。
これが近藤聡一朗くんと藤井憂憂ちゃん

、そして生活はつづく

今回の脚本は「おしまい」ではなく、最後に「つづく」と書きました。第1話より第2話、第2話より第3話、と、スピード感も面白さも期待感も、どんどん上がっていって、そのままバーン!と終わる、みたいなこともなくて、ずっとつづいていく。カーテンコールの曲も止まない。という劇に着地できたこと、とても満足しています。

みんなありのままの姿が素敵だ、みたいなことも、次はあなたの物語の番だ、みたいなことも言いたくない。ただただ物語はつづく、それが良いことかどうかとか関係なく、問答無用にただつづく、という事実に、胸がはちきれそうになるほど、うつくしいと感じます。

とてもとても、たのしくて好きな物語でした。

次の南極ゴジラは9月にシアター倉でやります。タイトルは『バード・バーダー・バーデスト』。決まっている事柄はこれくらいですが、次もきっと、楽しいと思います。生きているから劇をつくり続けるしかないし、またみんなに劇を見てもらえるのが、ただただ楽しみです。

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