他人に明け渡していた自分の力を取り戻す
カウンセラーとしてセッションを始めました!
とはいえ、わたし自身、まだまだ「わたしへ還る」旅の真っただ中におります🐥
ここ数日間、また大きな氣づき、癒し、変容の中にいました。
わたしは、2年程前に、母からの虐待をリアルに思い出し、それをどう捉えたらいいのかわからず、苦しんでいました。
無いものにしようとすることで、生きる道を選んだ、
だけど、決して無かったことにはならないわたしの感情を
出しては癒すという、今思えば、わたしに還るための尊い作業をしてきたこの2年間。
数日前にある出来事をきっかけに、
また大きな癒しと変容のタイミングを迎えました。
「わたしは母のひとりよがりの偽りの愛・エゴを受け容れない」という答えが出ました。
これまでずっと、母のしたことすべてを愛だと捉えて、受け容れてあげなければいけない、と思ってきたことに気づきました。
でも、変化する時が来ました。
おそらく子どもの頃から、母が押し付けてくる、母の言う「愛」を
「それは愛じゃない。あんたのエゴだ!わたしはそれは要らない!」って言いたかったけれど、
それを突きつけると母が傷つく、傷つけると母は壊れてしまう。
わたしは母を助けたいのに。
だからわたしは、わたしの気持ちを押し殺して、母の『愛』を受け容れることを選んだ。
おかしいって気付いた2年前。自分の気持ちを掘り起こそうとすると過呼吸になりました。
じっくりと向き合って、癒していきました。
癒しの特効薬は愛でした。
エゴではない愛に出会うことができ、受け取ることができた。
「ありがたい」と言うのが口癖だったわたしに、カウンセラーさんが、「まいちゃんはよく『ありがたい』って言葉を使うけれど、
心の底からありがとうって思う時以外に「ありがたい」って言わなくていいのよ」って言われたのを思い出します。
相手がわたしに何かを与えた時、それがエゴであったり、わたしが要らないものであったとしても、「感謝しなきゃいけない」「感謝しているふりをしなきゃいけない」と思い込んでいたのでした。
無理に感謝を伝えている時、わたしの本音は置き去りです。
自分の力を明け渡しているような感覚。
先日、どう考えてもおかしいと思うようなことを親戚のオバに言われた。
(わたしに気づかせるための演者登場です。)
その人は、自分がしていることを愛情だと言って、正当化して、わたしに押し付けてきました。
その時、わたしは、はっきりと、それはわたしには苦しいです、と主張できたけれど、相手のしたことを「愛情だと思う」「あなたのことを憎んではいません。大好きな家族です」と偽りの言葉を言いました。
電話の最中、お肌が痒かった。わたしの中で本音を大事にできていない時、葛藤が起こっている時、皮膚が痒みを出します。わかりやすい。
ウニヒピリ(クー)と行動が一致している時、心は楽。
方向が違っている時、葛藤が生じて身体に症状が出ます。
その後で、母の遺言状を読み返した。
母のことをどう捉えたらいいかわからなくなってから、2年以上手紙を読み返すことが怖くてできなかった。
わたしは母の書いていること、母の愛を、受け取りたい、受け取らなければならいと思っていた。
母を、母の愛を受け容れられる自分になりたいと思っていた。
わたしの心が成長したら受け容れられると思っていた。
苦しみを癒して、乗り越えたら、すべてを受け容れられるだろう、だからそこにたどり着きたいと思っていた。
それが、理想のわたし、完全なわたしで、そうでないわたしは道半ばの不完全な至らないわたしだと思っていたんだな。
抑圧してきた感情を迎えて、出して、癒しを重ねて、安心を手に入れつつある今のわたしなら、母の手紙を受け容れられるのではないか、そう思った先日、手紙を読み返しました。
そこには、暴力などまるで無かったのように、母は自分の育児に自信を持っている、自負がある、愛情いっぱいに子育てができたことが人生の誇りだと書かれていた。
それを呼んで違和感を覚えたけれど、その日はそれ以上に感情は出てこなかった。考えないことにした。
翌日から2,3日かけて、自然と出てくる感情に寄り添っていった。
怒りと悲しみと諦め、そして虚無感・空虚感。
虚無感と絶望感は、人生でいつも共にしていた感情だ。
この感情はわたしの力を奪い、エネルギーが全く出なくなる…
相手にわたしの力を明け渡しているこの感覚を久しぶりに体感した。
人生のほぼすべての時間、わたしは自分の力を他人に明け渡していたんだ。
わたしは、いま、わたしの足で立っていいし、わたしの気持ちを尊重していいことを頭ではわかっている。
だけど、土台がぐしゃぐしゃで、立とうとしても膝から腰から砕けて立ち上がれない、力が入らない、そんな感覚で、力が奪われて、この2日間、過去のわたしに戻ったように、力が出なかった。
過去のわたしの感情・状況を自己分析したり、ただ今ある感情に寄り添っていて、氣づいた。
わたしは母の信じようとする『愛』を信じてあげたかったんだなぁ。
暴力を含め、母がわたしに向けるエネルギーを受け容れてあげたかったんだなぁ。
お母さんを愛している、助けたかった。
わたしにとっては痛い苦しいことも、それは間違っているって言えなかった。真実を突きつけるのが怖かった。
そしてきっと、わたし自身が、お母さんが間違っていたという事実を受け容れるのが怖かったのかもしれない。
今回手紙を読んで、「お母さんは欠けている」とわたしは認めた。
「母のわたしに向けた愛は、偽りの愛で、母のひとりよがりのエゴだった」
「わたしはそれを受け容れたくない」
そして「受け容れなくていい」「受け容れない」
というのがわたしの本音であり、わたしの答えだ。
もちろん、すべてが歪な愛だったわけではない、
すべてを否定する気は全くないが、おかしかったことは確か。
わたしは母のしたことを「受け容れません」と言えるわたしが今ここにいます。
この気持ちに他人の許可は求めません。
この答えに、他人の評価は要りません。
わたしの気持ちは私が決める。
そう胸を張って言えた時、わたしは明け渡していた自分の力を取り戻したように、晴れやかな気持ちになりました。
そして「これでいいのだ~。これでいいのだ~」と口ずさんでいました。
わーい!わたしの人生の新たなステージに入りました~♪
いまここの素直な感情に乾杯🥂
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