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ゴリラ祭ーズ「日記」、そして映画『スミコ22』について

ゴリラ祭ーズの新曲「日記」が公開された。
ライブでもすでに何度か披露されていたが、主題歌として起用された映画『スミコ22』上映開始という絶好のタイミングでのリリース。
映画を完成させた映像制作ユニットしどろもどリによるMVも公開された。その映像は、彼らが映画の中でスミコが生きる世界線にごく自然にいるような気分にさせてくれる、幸福な作品に仕上がっている。


今「スミコが生きる世界線」と書いたけれど、さて、それが私たちが今生きているこの世界とどのくらい違うのだろう?とふと思う。


「日記」はこんな歌詞からはじまる。

「くだらない くだらない くだらないことばかり」

そう、この世界はくだらないことばかりだ。
扇情的なテレビ番組はつらくてほとんど見なくなってしまった。
代わりに眺めているスマホの画面も、日ごとに殺伐としてきた。
みんな「苦しい」と叫んでいる。不安と恐怖がこの世界を覆っている。
自分もまた何ごともなせず、ただ毎日をどうにかやり過ごすことで精一杯。
こんなはずじゃなかった。
釈然としない思いが日々の些事に紛れて心の底に澱のように積もっていく。

くだらない くだらない くだらないことばかり

呪詛のようなことばは、身のうちから湧き上がり己をやわらかく縛りあげていく。

イントロのドラムから始まるリズムは、部屋でひとり膝を抱えうつろな表情の主人公の姿を映し出す。モノクロの世界。物語がここからはじまる。

「この頃は何をしても いまいちピンとこない」
「さびしさもうれしさも まるで他人事みたい お気に入りのシャツはもう しばらく着れていない」

どうにもうまく生きられていない感覚。
充実感もなければ、気力もわかない、エアポケットに落ちて二度と戻れなくなってしまうような、あの感じ。

自分が自分でないような、身に起こるすべてが「他人事」で、だからお気に入りのシャツを着ることもできない。袖を通してみたところで、どうせしっくりこないことがわかっているから。

そんな自分を自分として生きられていない感じは、映画の中でスミコが感じた「自分の感覚がひどく曖昧になっている」と感じたことともつながっている。

「あー今日もまた 何もできないまま 繰り返す日々を繰り返した」
「特に何も書くこともないからさ 日記のすみっこには猫の落書きが眠ってる」

ここで「日記」が登場する。
主人公が何もできない「繰り返す日々」の中でも、毎日、日記に向かっていることがわかる。
淡々とした何も起こらないかに見える日常、そんな書くことのない一日の最後に日記を開く。
特に意味はないだろう。書きたいという気持ちすら今やない、それでも日記に向かうことだけは続けている。
それがただページの片隅に落書きするだけだったとしても。

物語が大きく動き出すのは次のフレーズから。

「風呂上がり 交差点 病院の待ち時間 運命を変える人と 人知れずすれ違う」

特に何ということのない時間、場所、見過ごし通り過ぎるような瞬間にも変化の兆しはいつも見え隠れしている。
いやむしろ、ドラマチックでないそんな瞬間こそ、変化の予感を自ら探しに行けるのではないか。

「動くな!手を上げろ!!金を出せ!!!さもなくば… なんてこと考えては バカらしくて笑える」

ありえない妄想でも、他者に働きかけてみることを想像する主人公。
いっそ「バカらしくて笑える」ほど荒唐無稽なことの方がいいのかもしれない。
「くだらないことばかり」の現実なら、こっちはこっちでもっと「くだらないこと」を考えてやるさ。
想像の翼を広げることで、現実の車輪はゆっくりと回り始める。

「明日の朝パジャマのままで 外に出かければ 景色が変わるかな」

すこしずつ想像が現実に近づいてくる。
外に出かけることで「景色が変わるかな」と期待を寄せることができるようになっている。
景色を変えたいという気持ちが、本人も知らないところで育ってきている。そこまでくれば、もうひといき。
たぶん、パジャマのままでも全然大丈夫だ。

「恋をしたい 眠れなくなりたいな」

眠れなくなるほど誰かのことを想う気持ち。
それはつまり「生きていることを実感したい」ということだ。
生き生きと生きたい、その気持をいつわったりはもうしない。
自分で自分をごまかさないと決めた主人公の姿は清々しい。

「何かが変わってしまいそう そんな予感を探す」

「何かが変わってしまいそう」。
具体的な事柄について、ある意図と目的をもって変えようというのではない。
あくまでも「何か」が「変わってしま」う、それが大切なところだ。
他者と、世界と関わりながら、自分でも思いもよらない変化に身を開いていくこと。
それを受け入れられるようになった主人公は、ついにその「予感」を探しに出かけられるようになる。

「勇気を出すことが できる気がした 忘れないように書き留めよう」

主人公は日記をつけていた。それが落書きだけであったとしても、毎日続けていた。
そこに、「忘れないように」と書き留めたいと思うことができた。
ほんのささやかな、ささやかな変化。

しかし、その小さな変化を用意したのは、日記を通じて日々を振り返ろうと主人公自身が続けてきたからにほかならない。

加えて、勇気を出すことが「できた」のでなく、あくまでも「できる気がした」というところが大切で、その小さな変化を自ら気づいて言葉にできたのは、これ以上ないほど大きなことだ。

「大好きだと小さな声で叫ぶ」

大きな声ではもちろんない。
誰にも聞き取れないような、自分にしか聞こえない「小さな声」。
それでも叫んでいる、「大好きだ」と。
その対象は具体的な誰かかもしれない。
しかしその行為をとおして主人公はこの世界と自身を肯定することができるようになっている。

「大好きだ」。
小さな声で叫ぶのは、この世界で生きたいと願う自分自身に対してでもある。

「日記のすみっこには猫の落書きが鳴いてる」

眠っていた落書きの猫がついに鳴き出した。
猫が鳴くのは他者に伝えたいことがある時だという。
だとすれば、主人公の分身であるこの猫もまた、何かの予感を求めて動き出している。
もう大丈夫だ。

「くだらない くだらない くだらないことばかり!」

最初のフレーズがまた繰り返される。
主人公がひとり部屋でうつろな気持ちを抱えていた時に、世界と自らを呪うように絞り出していた言葉。
しかしここでは、「!」と感嘆を表す記号が付されているとおり、主人公の感情のベクトルの矢印が、「くだらないこと」に向けて放たれている。

世界は相変わらずくだらない。何も変わってはいない。むしろ日一日とひどくなるばかりだ。
しかし、「!」という感嘆符とともにそこに自らの感情を向け、ほんの小さな存在であっても一人の主体として、世界へ態度表明していこうという気持ちが感じられる。
そこにもう最初の、うつむいた主人公の姿はない。

「なにもかも見逃さないように なんとなく生きてみる」

主人公は最初から「日記」をつけていた。
日々の記録。
その一日がどうだったか。
自分は何をしたのか、できなかったのか、あるいはすることを選ばなかったのか。
何も書くことがなくても落書きを描きながら、一日を振り返ることを続けてきた。

「なにもかも見逃さないように」するためには、「なんとなく生きてみる」ことが不可欠だ。
何かに目標を定めて一心不乱に脇目も振らずに努力することも尊い生き方だけれど、それと同じくらい「なんとなく生きてみる」ことは、今だからこそ困難で、それだけに必要な態度だとさえ思う。

主人公はずっと自分と世界を見つめてきた。
凝視してきたと言ってもいい。
時にそのことで虚ろな気持ちに苛まれることはあったけれど、それでもじっと見つめ続け、今自分から手を差し伸べていこうとしている。
その姿は感動的だ。

「少しずつ変えていく 少しずつ変わってく」

ほんの少し変えたことで、それに伴って意図せず変わっていくことがある。ひとりひとりのそんな変化が積み重なって世界は動き出し、変わっていく。

「日記」を街の中で聴くと、すれ違うたくさんの人々にそれぞれの物語があることに気づかされ、たまらない気持ちになる。
お互い名の知らぬ、おそらく二度と会わない人たちの、その人だけの「日記」。
そう考えると、スミコだってほんとうにその中にいるのではないか、と信じられる気持ちになる。

少し脱線する感じにはなるが、この歌の中にはスミコを想起させる箇所がいくつかある。
歌詞の中からは省かれているが、映画『スミコ22』本編の中にも登場するあるセリフがSE的に仕込まれているし、偶然かもしれないが歌詞の中に「すみっこ」という言葉が2回出てくる。
歌と映画が音で強く結びついている箇所だ。自分は聴きながら、スミコのことを必ず思い出している。
もちろん、歌と映画に相通ずる空気感があるのは、映画をご覧になった方であればうなずけるところではないかと思う。

ここまで主題歌「日記」の歌詞について主に触れてきたので、音楽のこともすこしだけ。

すでに書いたとおり、この曲はまずドラムの淡々としたフレーズの繰り返しから始まる。モノクロの世界に佇む主人公を想起させて、曲が始まる。
それからおもむろに歌が始まり、ベースとアコギが順に加わっていく。

そして「あー今日もまた」というサビのパートから、ゴリラ祭ーズのトレードマークでもある、平野駿のリコーダーと舩越悠生の鍵盤ハーモニカの音が流れ込んでくる。
主人公の日常が、モノクロから少しだけ色づいてくる瞬間だ。
顔をあげた主人公に寄り添い励ますように、2つの音が軽快なハーモニーを奏でる。

そして「動くな!手を上げろ!!金を出せ!!!さもなくば…」のパートでは、その二人がそれまでとは違ったやや不穏なフレーズで現実離れした妄想の世界を表現する。
そしてその世界はヴィブラスラップの一撃で一気に現実に戻る。実に巧みというほかないアレンジだ。
また時折聞こえてくるエレピも、とても効果的に曲を彩っている。

終盤、再びAメロ(「くだらない くだらない くだらないことばかり!」)に戻って来た時に転調が行われていて、これがほんとうに素晴らしい。
作曲した古賀礼人自身が語っているとおり(podcast「しどろもどリのごはんが来るまでラジオ」【『スミコ22』はじまるまでラジオ#14】 ゲスト:ゴリラ祭ーズ)、この転調ののちAメロに戻るところが、映画『スミコ22』の世界を音によって見事に表現している(詳しくは、彼自身の言葉をpodcastでお聴きください)。

同時に、歌が終わったあとのアウトロで、イントロと同じドラムのみのフレーズに戻っており、イントロではモノクロの部屋で膝を抱えていた主人公が、実は「日記」という日々の繰り返しのリズムの中で、次第に前を向いて歩き出そうとしている頼もしい姿が見えてくる仕掛けになっている。
これもまた考え抜かれた素晴らしいアレンジだ。

さて、はじめに、「スミコが生きる世界線」と書いたけれど、それは私たちが今生きているこの世界と実は何ら変わらないのではないかと思う。

もちろん、実際に映画の中に入ることはできない。映画本編では語られなかった膨大な物語もまたあるだろう。
しかし、スミコが生きている世界は、ゴリラ祭ーズの「日記」というとんでもなく素晴らしい主題歌によってこの世界へと接続され、映画を見たわたしたちひとりひとりの物語として続いていく。
実はそのような驚くべきことが、この作品によって起こっているのだ。

「自分とたしかに過ごす毎日」。

これが映画『スミコ22』のキャッチコピーだが、「自分とたしかに過ごす」ことが、今とても困難になっているのは誰もが感じることだろう。
映画の中のスミコの姿を通じて、またゴリラ祭ーズの「日記」を聴くことを通じて、だからこそ「自分とたしかに過ごす」ことの大切さをあらためて思い出したい。

今回、ゴリラ祭ーズがこの映画の音楽担当となったことも、オファーしたしどろもどリが彼らの音楽にシンパシーを感じていたことがきっかけだという。
つまりそれは、両者が持っている視点に、もともと通い合うものがあったということなのだ。
主題歌「日記」だけでなく、劇中の劇伴も、あらかじめそこにあったかのように映画の世界とマッチしている。
ゴリラ祭ーズにとって、初めての映画音楽が『スミコ22』になったのは、ほんとうにラッキーなことだったのではと思う。
そのくらい美しい調和が成立している作品だ。

将来有望な若き才能、しどろもどリとゴリラ祭ーズ。
両者の幸福な出会いから生まれた、しあわせな映画と音楽。
映画『スミコ22」そしてその主題歌「日記」は、今最も必要で大切なことを表現している。
ぜひ映画館で観て、聴いてほしい。
エンドロールの後、私たちがかえってくるのは、「何かが変わってしまいそう」な予感を感じられる、スミコのいる世界線だから。