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強さは時として狂気になり得る


例えば、AちゃんとBちゃんがいたとして

Aちゃんは 割と人目を気にすることもなく 自分の欲求に対する行動が素直な子だとして、反対にBちゃんは 人目を気にしたり 他人の反応や様子によって 自分の欲求を隠してしまう子だとする。

強さという定義は人それぞれだけれど、この場面で 表す "強さ"を定義するとすれば "自分の考えをはっきりと表に出せるかどうか" である。

本当に極端な例だけれど、AちゃんとBちゃんが2人で出かけに行った先で 飲み屋に入ったとしよう。そこの飲み屋で 他の客に 難癖をつけられたとする。
例えば、話し声がうるさい(難癖つけた本人の尺度であって周囲はそんなに気にならない程度) とか 最初の1杯はこの酒だと言われたりだとか 何かにつけて絡まれたりだとか。
その場合、Aちゃんは 話を受けようともしないし 「あぁ、そうですか。次から気をつけます ごめんなさいね」と悪びれもなく言い放ち グビグビと自分の好きなお酒を頼んで 喉に流し込む。

だけど、この行動って Bちゃんにとっては どう映るのだろう。
彼女にとっての 根幹は 他人である。
その場合、Aちゃんの 自分の信念を通して 他人をバッサリと切り捨てる行為は ビクビクするのではないだろうか。Bちゃんにとっては 難癖つけてくる客も Aちゃんも お店全体が 誰も 私達という存在に 目をかけることもなく 空間を楽しむことが 1番安心することなのでないかと思う。
その場合、Bちゃんが このお店全体の空間を含めて 楽しいと言えるのは 店を変えるか 難癖つけてきた客が退店するか のどちらかにならなければいけないのではないだろうか。


Aちゃん1人の時はこの行動はきっと 良いと思う。だって、自分1人だけだから。
けれど、Bちゃんが隣にいる際に Aちゃんの信念を通したとしたら それは話が変わってくるのではないだろうか。

せっかく2人で空間を共有しているのだから 楽しく飲みたいという気持ちは2人とも共通だけれど、
Aちゃんにとっての"楽しく飲みたい"とBちゃんにとっての"楽しく飲みたい"は同じ表現だけれど、意味を解釈しようとすると大きな乖離が生まれるのではないかと思う。

"強さ"の定義は、必ずしも 他人に自分の感情を示せることではないし、自分の信念というものは、心の真ん中に立てる心柱のようなものだと思う。簡単に 壊れないように。倒れないように。 そういう真ん中の部分に何を建てていくのかは 人によって違う。

自分にとっての "強さ"というものを大切にすることも それを指針に生きていくことも 美しいし とても素敵だと思う。だけど、例えが極端かもしれないけれど、さっきの例え話のように 自分で気づかないうちに 自分の持つ強さという部分が 誰かを 怯えさせているかもしれないという 気持ちは忘れずにいたいよね。ってそういう話。

自分にとっての強さとはなんだろうと 改めて考えたいなと思いました。


 

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