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居酒屋で出会った医者と占い師の話


noteの下書きに書き上げたのに掲載していなかった記事があったので消化しようかなと思う。
2019年の9月。少し昔のお話だけれど、その時の記した気持ちと今の私の気持ちはそんなに変わらないなと思うので、そのまま載せておきます。


私は居酒屋が好きだ。特に個人経営の居酒屋。
カウンターだけ並ぶ居酒屋は、席が隣り合ったお客さんと話す機会が沢山ある。たまたま隣に座った人の物語や価値観を覗いたり、一瞬でも触れられる機会があることは宝探しのようだ。

その日に知り合ったのは、70代くらいであろう医師を生業とする老人と50代くらいの占い師を生業とする女性だった。何だかんだきっかけがあって、色々な話を聞かせてもらっていた。その中でも私が興味を抱いた話がある。

「宗教を信じていますか?」


このフレーズだけ聞くと「何だ、怪しいな…」と感じるかもしれないが、ここでの宗教というのは、魂や霊についての「宗教」である。

人は死んだ後に何処に行くのか。
それは永遠に解けない謎なのかもしれない。
そんな誰しもがわからない「魂」という観点についての「宗教」の話になった。

白髪がとても素敵な老人が口を開いて、語った。


「私の観点からすれば、魂というものは存在しないし、信じていない。何故なら、医学というものからすれば人は死んでしまったら、その瞬間に肉体とともに消滅するからだ」

その老人は「人は生きてきた世界や歩んできた過去から形成される背景や慣習・価値観が構築されていて、それらの自分が歩んできたものを正しい価値観だと信じて生きている。だけど、たまにその価値観からは逸脱したものに出会う。そんな時に『これは(私の経験からは)信じられないものだ』と感じたものを神秘的なものとして昇華するだけなのだ」と言った。

「本人が感じた違和感は今までの人生の中からすれば経験外だっただけで、その経験外のものにも必ず発生した理由は存在するし、説明も出来る。なのに、人はそれらの経験外の出来事を魂や霊という目には見えない存在に向けて、事を片付けようとする。そんなのはおかしい。この世界の出来事は 何にでも理由が存在するはずだ」と。

それを聞いていた50代くらいの占い師の女性が口を開いた。

「違います。魂は存在します。
魂は色々な部屋を借りて生きている。人間の中に宿っている魂は、肉体が消滅したらまた新たな部屋を探してずっとぐるぐる回り続けているんだから。実際、私はそういうものを感じますし、本当にいます。存在するんです。」と。

まぁ、聞く人が聞けば彼女を胡散臭いと感じる人もいるかもしれないけれど。 考え方で言うのなら、私は彼女の考えの方が幅を持たせるという面では救いがあるだろうなと思った。

どちらの価値観も考え方も、私は素敵だと思ったし、どちらも好きだ。
だけどまぁ、当然だけどこの議論は衝突した。


人間の価値観に正しいも間違いもない。
けれど、自分が生きてきた信条や価値観とは正反対のものに出会った時、自分にとっての信条や価値観には反することを「違う」と感じて発信し、否定という形で相手に突き返す。
自分の信条に反しているというだけであって、それらの意見が正しい云々ではない。

 白髪の医者の「魂は存在しない。肉体は死んだ時に消滅するんだ」という価値観に賛同する人もいれば、女性の占い師の「魂はずっと存在していて、ずっと色んな人の心の部屋をグルグルとまわって彷徨っているんだ」という価値観に賛同する人もいる。

どちらの意見に賛同しても1つだけ共通することがある。それは「どちらの意見にいまの自分の心は寄り添いたいか」だ。

何をその人の拠り所にするのかは人それぞれ違う。どちらの意見にもそれを拠り所にしている人がいる訳で、どちらの意見も否定するべきではないし、誰もそんなことはできない。
例え賛同する人がいなかったとしても、その意見自身を誰もが否定するべきではない。

ただ、どちらに傾いたとしても、1つの意見に寄りかかりすぎた時に危ないよということだけはわかる。

例えば、誰かが亡くなった時「肉体は消滅した。魂は存在しないのだから死後の世界なんてない。亡くなった後に故人にかけた言葉は届かない」と考えて、1つの区切りとして考えることで自分の心を保てるのならそれはそれで正しいだろう。

反対に「肉体は借り物の部屋で魂は亡くなった後も廻り続けている。だから語りかけた言葉はその人にちゃんと伝わっている」と考えて、故人への後悔を救済するための術をそこに求めることも正しいだろう。

どちらも正しいけれど、何か1つに依存し、「私はきっと救われるのだ」と強く信じ、それに寄りかかりすぎることは時にその人自身をより深く傷つけてしまうのだろうなと思う。

自分だって、たまたま何かに依存しなかっただけでタイミングが合ってしまえば、そんな風に依存して、より深く傷ついてしまっていた側になっていたかもしれない。
何かの壁にぶつかった時、それらに対して自分がどんな風に気持ちを処理していくのかは、その時の周囲の環境に左右されやすく、それらが今後の自身の人生を決定づける分岐点になり得ることが多々ある。
だけど、何を指針に生きていたとしても、自身の指針を間違えだと思うこともないし、否定されることもない。それと同じように他人の指針を間違えだと言うことも否定することも誰も出来ない。

何が正しいのかもわからない世界で、多様な正しさの中に埋もれながら、自分の信じた指針を一生懸命に抱きしめて、一生懸命に模索しながら生きている。

これからも自身の指針とは対立する指針が現れるかもしれない。

だけど、そんな時に「あぁ、そんな指針もあるのね」と受け入れて、「私の持っている指針も良いけれど、貴方の持つ指針も良いね。」と、新たな指針を受け入れられるような大人になりたいなと願う。

白熱している議論を横目で眺めながら、ウーロンハイを流し込む。

ほろ酔いになってゆらゆらと揺られながら、やっぱり居酒屋は楽しいなぁと思う。

隣の議論を肴にしながら、また1杯、もう1杯とお酒を奥へと流し込む。同意を求められても曖昧な相槌だけ打ち、ケラケラ笑う。うんともすんともはっきりとは言えない世界でそういう矛盾や曖昧さをぼかして気持ちよく酔っていく。あぁ、お酒は美味しいね。今日も気持ちよく眠りにつけそうだ。

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