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名前を与えて。


久しぶりに大好きな洋食屋さんで食事をした。

ずっと身動きができない状況で、気軽に会えない世の中に 少しだけ光が差してきたような気がする。そうであってほしいと思う。

お手軽なコース料理を注文して、お酒を片手に色々と話す。

その話の中で父親からこう言われた。

「貴女の中で 辛い記憶が消えてないんだよ。
   そこから派生して 症状が出てるんだよ。
   一度 ちゃんと治療してきなさい」と。


時々、突然不安に襲われて 身動きが取れなくなることがある。正直、そうなってしまう原因がどこから来ているのかもわかっているし、何となく 私に起こるこの現象に 名前を与えるのであれば こういう症状と診断されるのだろうな と該当するものもある。

名前を与えられ、その症状を改善できる薬を処方されれば きっと いまの私が抱えている突発的な辛さは解消されるのだろうと思う。

その現象に名前を与えられることを 私はしてほしいと思う。何故なら、今までぼんやりとしていたその現象が 名前を与えられることによって うっすらとでも輪郭を帯びるからだ。

そうやってしてくれれば、私は安心すると思う。
あぁ、いま 〇〇が来てるな。と自覚して、今まで知らなかった対処法も知れるだろうから。

名前を与えてほしいと願う。いずれは。
ただ私は 名前を与えられることが 少しだけ怖い。


治療をするということは、その症状がどこからやってくるのか。根本的な気持ちと向き合わなければならない。
名前を与えられるということは、その根本的な原因を探ること。探るということは、私は その辛い気持ちに また触らなければならないということ。


その辛い気持ちが発生した原因となることが起こった頃、私は精神科には行かなかった。定期的なカウンセリングも受けなかった。

たまに 学生相談室という場所の カウンセラーの先生に話を聞いてもらっていた。
だけど、定期的というよりは 突発的に話していた。それ以外は 自分ができる範囲で 自分で傷を癒やしていた。痛みが過ぎるのをずっと待っていた。

きっと、それが間違っていたのかもしれない。
傷が少しだけ閉じたなと感じた頃、私は突然訪れる痛みは残っていることを知った。

日常の何かが引き金になり、ふとした瞬間に息が苦しくなる。
でも、苦しくなった瞬間をすぐに自覚して 私は他の対象に目を逸らすようにしていた。

その場しのぎだけれど、そういう即席の対処法をずっと繰り返して 傷を回復させてきた。

やっと 傷が塞いだなと感じた頃、塞がれたと感じると共に、ふとした瞬間に訪れる 痛みは残っていたことを知る。私は その痛みを我慢した。それは後遺症のようなもので これとは ずっと付き合っていかなければならないものなのだろうと思っていたから。



名前を与えてほしいと願う。
だけど、また 辛い気持ちに触れなければならないことが怖い。

やっと大丈夫だと思える自分に戻れたのに、また あの時のひどく悲しくて 痛いと喚く自分になってしまうのではないかと、そう考えてしまう。

深い深い悲しさの海の中から やっと陸にあがれた自分がいる。

やっと呼吸ができたのに、私はまた自ら海に潜らなければならないのか。

そして、また潜って 陸に上がってこれた時、同じ陸に上がってこれるかどうかなんて 確証がない。私はそれが1番 怖い。

いずれ向き合わなければならないとは思っている。だけど、それは今ではないような気もする。


向き合いたい。だけど、怖い。
私は何もわからない。
どうしたらいいのか わからない。


とりあえず、探してみる。
行くか行かないかは いまは決めない。
だけど、未来の自分がどちらの選択をしたとしても、選んであげられるように。選択肢は多めに用意しておこうと思う。その準備は しておこうかなと思う。


今じゃなくていい。だけど、少しずつ 向き合う準備をしていきたいな と思う。

怖いけど、きっと大丈夫。大丈夫だと思う。
何とかなるよ、大丈夫。


読んでくれた人、ありがとう。
私の気持ちをここに置いておきます。

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