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東京

「東京はね、夢を叶えるための場所じゃないよ。夢を諦めてもそれに気づかないでいられる場所だよ」

何かのドラマのどこかの台詞。
東京について語られる時、そこには諦観に似たような一種の冷たさと、目が痛くなるほどの眩しさが含まれているような気がする。

生まれた時から東京に住んでいた。

大学時代に親の意向もあって東京から離れた時期もあったけど、それでも首都圏と呼ばれるところに住んでいた。東京の大学へは通学に1時間ほどかかっていたけれど、通学圏内に渋谷、新宿、池袋があった私は「ラッキー」くらいにしか思っていなかったし、特段何かに不便を感じたこともなかった。

大学の友人も高校の友人も、首都圏に住んでいることが多かった。
だから、入社してから同期たちの半数以上が1人暮らしをしていることに対して新鮮さを覚えたし、地方出身の同期たちが口々に発する「東京に出たかった」という言葉がとても色濃く映った。

『東京に出たかった』なんて、ドラマの台詞でしか聞いたことなかったな とその言葉に少し驚きと戸惑いを覚えつつも、少しだけ羨ましさを感じてしまった。

何故なら、私は彼らのイメージする東京を同じように知ることは出来ないと思ったから。

ある時、父親の故郷に帰る機会が何度かあった。
いつも新幹線と電車を乗り継いで向かうのだけれど、行き着く駅は映画のワンシーンでしか見たことのない小さな無人駅だった。
乗り終えた切符を木箱の中にいれていたことにも少しの衝撃を覚えた。そこかしこで忙しなくsuicaの音が鳴り響く東京の改札とは裏腹で とても和やかで静かな場所だった。音もなく木箱の中に吸い込まれる切符を眺めながら、私はその静寂さを目に焼き付けた。何故かわからないけれど、その不便さが好きだなと感じたから。

その日、父親から夕陽を見に行こうと誘われた。4人乗りの軽自動車に乗せられながら、山の坂道をグルグルと渡り、上へ上へ30分ほど車を走らせる。

結構 高い山地に来たなと言うところに、少し古びたホテルがあった。そのホテルのバルコニーでコーヒーを飲みながら、沈んでいく夕陽をじっくりと見た。

バルコニーから眺めた夕陽は、オレンジ色だった。遠くの山の頭上に昇る太陽と広い海が見えた。視界の周りに何も遮るものがなく、太陽の陽が海に反射されるから やけに眩しくて、目がチカチカした。

父がその夕陽を見ながら言った。
「この夕陽とあの海を見るとね、帰ってきたなぁって思うんだよね」と。続けて父は「東京で生まれて、東京という場所でしか育っていないあなたにとって 帰ってきたなぁと思える場所が東京しかないこと、それが少しだけ寂しいなと思うんだよね」と言った。

沈んでいく夕陽を共に見て、父は懐かしむようにうっとりと眺めていた。チカチカとやけに眩しい夕陽にしか感じられない私からすれば、穏やかに目を細めて夕日を眺める父を横目に見て、少しだけ羨ましいような気持ちになった。

父の「帰ってきたなぁ」と感じる瞬間が、私にとっては新幹線から東京駅の改札へと向かう人混みに呑まれる瞬間だったりする。

私が安心する夕陽は、視界の周りに何も遮るものがないやけにチカチカと眩しいその夕陽ではなくて、ビルとビルの間で窮屈そうに沈む夕陽だったりする。

「憧れの東京」を私は本当の意味ではわからない。だけどきっと彼女たちも、私の"東京"を知らないのだろうなと思う。

思い立ったら電車で30分ほどで到着する渋谷も、高層ビルが立ち並んでいる街の風景も、5分に1本行き交う電車のことも。改札から地上まで迷子になってしまいそうな新宿駅も、生まれてから今まで その日常に戸惑いもなかった。喧騒も何ひとつとして不思議なものではなかった。

東京は冷たいとよく言うけれど、私にはその冷たさが心地よい。どこもかしこも光があって眩しい夜も私にとっては心地よい。それらを知らない人たちからすれば、きっと違和感や戸惑いを覚えるのだろうけれど。

わたしが旅行を好きなのはそれも1つの理由なのだろうなと思う。知らない町の景色に圧倒されること。美味しいご飯に舌鼓を打つこと。移動先の電車が1時間に1本しかない不便さを感じること。そういう知らない町の知らない日常を知ることが心地よい。

きっと自分の日常も誰かにとっての非日常なのだろうと思う。そう思うと生活のひとつひとつが愛おしい。

誰かにとっての東京は眩しくて人混みがすごくてうるさいのかもしれない。だけど、私にとっての東京の喧騒は帰ってきたなと安心する瞬間だったりする。

東京が好きだ。冷たくて眩しい東京が私にとっては心地よい日常だから。




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