2022/9/13 去年のショパンコンクールの「痛み」について

かてぃんさんが、あの結果にそんなに拘って、ずっと痛みを抱えてた、というのはちょっと意外な気がした。でも、なんとなく私も「呪い」をかけてたかも、という気もした。「呪い」というとちょっとキツイ表現かもしれないけど、「祈り」とか「願い」よりももう少し踏み込んでいる感じ。「おまじない」くらいがちょうどいいかな。私はコメント欄やリプに、幾度となく「おまじない」をかけた、という自覚はあった。
最初はギジツコからのかてぃんラボ配信、すごく心細い感じが透けて見えたので、かなり考えてコメントしたような記憶がある。
もう見れないけど、私が自分で書いたコメントの大意は覚えてる。
「かてぃんさんは、ショパンが帰りたくても帰れなかったポーランドにいて、ピアノを弾いているんですね。かてぃんさんが、もしも今、何かの事情で日本に帰れなくなったら、と想像しながら弾かれているんでしょうか?
ショパンが曲に込めた愛が、『角野隼斗』の中を通って、ポーランドに響き渡りますように!」
どうか、他人からの視線や意見ではなく、ショパンの事だけ考えて欲しい、という気持ちを込めたと思う。

それから、一次通過のツイートに、「次はショパンが破顔するような演奏を!」と書いたし、二次通過の時は「次はショパンの心臓がゆるぐような演奏を!」って書いたはず。なぜこんなに覚えてるか、というと、やはり「おまじない」だったからだと思う。力のある言葉を言いたかった。伝わったかどうかはわからないけど。
残念ながら三次通過ならなかった時は、私自身に対して「おまじない」の言葉を吐いた。
「『コンツェルトほど楽しいものはないんですよ、人生で』っていうほど大好きな協奏曲、弾かせてもらいたかったですよね」
他の通過した方々の事は考えずに、ただただ弾けなかった事が残念だった、って言わないと、あんなに凄い演奏だったのに!って憤っちゃって、なんだかあんまり美しくない嫉妬の念が沸き起こっちゃうから。そう思って吐いた言葉だったのに、たぶん私史上いちばん「いいね」数が多かった。なんのタグもつけなかったのに。なんなら誰のことか、も書かなかったのに。
みんなも同じ気持ちなのかな、と思いながら、あまりの衝撃で聴き返せない三次予選の演奏をずっと脳内再生して、何度も心の蓋を開け閉めしてた。
何度も何度もあの演奏はすごかった、って思いながら心で葬送ソナタ再生してたら、コンツェルトはオマケみたいなもんだって思えてきて..
そして、ファイナルに進めませんでしたというツイートにこんなリプをした。
「コンツェルトは、最後に残したデザートみたいなものだと思うので....
ポーランドで食べても日本で食べても、いいと思います♪
そして、これからどんな音楽を作ろう? と、ワクワクしてる気持ちもよく伝わりました!
そのワクワクが伝わってくる限り、ずっとずっと応援できます!」
ワクワク、よりも実は悲嘆が少し勝っているかな?というかてぃんさんのツイートに、私自身のためにもまたちょっと「おまじない」をかけた、と思う。
でも実はかてぃんさんの迷いや畏れや悲しみや泣きたい気持ちを私は無視して、私自身が感じないように封じ込めてきたような気もする。そういう負の感情を認められなかったけど.....認める事が必要だったのかもしれない。
きっと、たぶん、私が一番たくさん口にしたシンプルな「おまじない」が、私にも、そしてもしかしてかてぃんさんにも必要だったかも。
「いたいのいたいのとんでけー!
いたいのいたいのとーんでけーー!
いたいのいたいの、遠ーいお山にとんでけ!!!
まだ痛い?そうね、コケたら痛いよね、でももう泣き止んだし、みんな公園で待っているから、ズボンぱんぱんってして....さあ、行こう」
そして、明日、ようやく聴けるよショパンコンツェルト!
嬉しい!

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