【過去記事移行:2017年07月05日 21時49分56秒】

Tomoakiです。
ついに公開となった『忍びの国』を鑑賞してまいりました!

実は僕、もう嵐の大野くんのファンになって10年目に
突入するファンでございます。

思い返せば、今の職に就く後押しになったのも
大野くんの存在がいたなと、映画の帰りに思ってました。
懐かしいです。

昔やった映画論で
主人公の目線が、鑑賞者の目だというのを
教えていただきましたが、
映像を制作するたびにその純粋な目線というのは
奪われていくものでして。

でも不思議ですよね、といいますか
当たり前の定理なのかもしれませんけど
大野くんの映画だけはどこか純粋に見れるんですよね。
一鑑賞者として。
(まだまだ自分自身制作者としては、あまあまですけども。)

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※この先、ネタバレなのかよくわからないネタバレしております。ご注意ください。

さて、「映画 忍びの国」。僕の感想を書いていきます。

僕の中でのテーマは「確実に存在する定理と人間の心情から生まれるささやかな定理のせめぎ合い」だと感じました。

金のためなら働く伊賀の忍者たち。
「金=労働」
人間が生み出した定理です。
よく考えてみれば、これもまた幻想の定理ですが
かなり強い力を持った定理(価値判断)だと考えます。

そこに「義理」とか「愛」とかが関わってくるわけです。
お金では確実には買えない価値。ささやかな定理。

そもそも、お金と労働という確実な対価は
人間の考えあってのこと。
「お金=対価」という存在だけでは存在できない。
底の抜けかけた定理の難しさを感じました。


単純に「お金で買えない価値がある」というより、
「お金=対価=労働」という定理(価値)がそもそも
人間の思想から生み出されたものであって、
単独的に歩くはずがないのに、
その感覚が独りで歩き、愛や義理といった思想が
かけ離れていっている、
むしろ底抜けてスカスカになっている、
皆、絶対的価値に見える表面だけを見ているような感覚を
覚えました。

優先順位とか人間関係とか
大人になるにつれて、どんどん自分のなかで
問題になっていっていて、
この先さらにそれが複雑化するんだろうなとも思っていて。

時々、今のタスクはどれくらいの価値?数値にできる機械が
あればいいのになぁ、と思ってみたりもしてましたが
なんだかその考えを根底から恐怖にしてくれる、そんな映画でした。


大野くんのアクションシーン、目を見張りました。
あと、映画館にけっこうおじさまも多く、なぜ多いのか気になってしまいました。

毎度ながら、大野くんの映画は、
自分的に純粋な目線でみれるので収穫が多いです。
また、発見と楽しみを望むばかりです。

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