身体の神聖 〜追えないもの〜

【過去記事移行:2018年05月11日 14時55分52秒】

今朝見つけた2つの記事。
身体表現という観点からなんだか興味深く。

ヌードで美術を見るイベント、パリで開催。参加者からは「作品が違って見えた」の声
【閲覧注意】死体を放置して「地球に還る」様子を観察する、テキサスの巨大研究所に潜入

ヌードで美術を見る。。。
見られる側としてのヌードはよくあったけども、
(最近ヌード展とかもありますよね。)
見る側としてのヌードの発想はあまりなかったなぁ。。。

わりと鑑賞者をどうこうするというのは
主人公の目線と鑑賞者を一致させる方法として
ある種有効な手段の一つだと考える。

だからこそ、アトラクションものって
楽しいって人々はいうのだろうし...

ただ、やはり公共スペースの裸体っていうのが
なんだかタブーされているようなところもあってか
表現者の方が裸体になることはあっても
その鑑賞者が裸体にさせられるということは
あまりなかったように感じる。
(まぁ、どこかの誰かはやってそうな気がするけど)

裸体になるだけで、心が揺さぶられる我々は
やはり、この公共の場で裸体をさらすという行為が
神聖なもの(ゲスいとか、エロいとかそんなのほっといて)
なのではないかとつくづく感じる。

裸体 is 神聖

そんななかで、合わせて考えたのが
屍体を放置して、地球に還る様子を観測する研究所をテーマにした作品。

ロバート・シュルツの『The Washing Away of Wrongs』

死というのもまたタブー扱いされやすい分野だ。
言ってしまえば、屍も裸体となっていくもの、というか身体。

還る様子を観測した先に、何があるのだろう。
科学的なものでもいい。
精神的なものでもいい。

人の手によって無理に最期の姿になるのではなく
自然にもどっていくこと

やはり身体は神秘である
精神的も肉体的にも...

消えていく家にこの間帰ると
生前を最後に会った、祖母の遺骨が置いてあった。

葬式にも行けず、お別れの挨拶も微妙なまま、おばあちゃんの前を去って3ヶ月。

そこまで葬式の報告を受けても全く実感ないままいた。
四十九日も知らない間に終わってて、
帰ってきたら、全く違う姿になっての対面だった。

会ったのに、実感はやはりなくて、
なぜか涙も出なくて、
それがある意味一番悲しいことだった。

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あとがき

使わぬ語彙力は本当に落ちる。。。
そんなことを反省し、またできるだけ多くの思ったことを一生懸命
書いていきたいと思う。

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