攻撃というものについて

正義は大事
でも、それが攻撃にすり替わってしまう事がある
破壊は一瞬
守り育み維持するためには多くの時間と労力が要る
その正義、何か別のところから出ていないか
今一度、熟考の余地ありと感じました。

と、最初ここまでツイートしたのですが
これには大事な注釈あることに気が付きました!

相手が攻撃して来ている時はこの限りではないのです。
私は普段、穏やかに見られるので意外に感じられるかも知れませんが、
「攻撃に対しても、とにかく非暴力であれ」とする考え方には反対なのです。

なるべく穏便に済ます事が出来れば理想的ですが、そうでない時には守りが優先です。

昔こんな事があったのです。

私に非暴力を強要して来た人が
政治的な話題でした

その方には私は穏やかそうに見えていたのでしょうが、その私が怒ったことがあったのです。
その時に「それでも非暴力を」とその方の持論を強く押し付けてきたのです。

私は突っぱねました

そこでは議論だけなので、勿論誰も暴力は奮っていません。
会話の中での意思表明でした。

ですが、やる時はやらないといけません

だからこそ、最初の攻撃には慎重になるんですが。
でもそれはどんな事があっても何もしないと言うことではないのです。

これは哲学的なテーマでもあります。

基本的には非暴力、穏便解決
でも「何処までも」というわけにはいかないのです。
ならば、何処からなら妥当なのか

「このまま行けば自分や守りたいものが傷付く」と判明した時は躊躇するべきではないと思っています。
ただ見極めはとても難しいです。

これには賛否両論あると思います。
私は自分の考えを押し付けることはしません。
私の考え方を明示しておきたいだけです。

同じ言葉でも
誰が言うかによって
そのレベルには差が出ます。

これはこの話の最初の
「正義がすり替わっていないか」
という問いにも抵触してきます。

それでもやはり
我慢には相手がどんな存在かが大きく関わってきます。

非暴力に心を打たれる人もいるでしょう。
でも、相手が反撃しないと増長してエスカレートする人間もいます。

本当に難しい…

それでも結論めいたものを出しておきます。

自分や、自分の大事な存在が
攻撃を受けているわけではない時の断罪や攻撃には極力慎重になった方が無難
自分が知らない事情もあるかもしれない
表現方法への工夫が必要

思わぬ恨みや攻撃を受ける結果にもなりえる

ということだと思います。