映画「復活の日」(1980)を観て思う

コロナショックの中
映画「復活の日」を観た。

この時期ということで、家族が観たがったのがはじまりだが、ネットで話題になっていたのを耳にしたので私も付き合うことにした。

映画の状況は現実より激しいが
コロナウイルスに怯える今の現状との共通点に震える思いがした。

地球上で生き残った者が余りに少なくて
その中でも女性の数はほんの僅かで
「女性は貴重な資源」となってしまう展開には参ってしまう。

私は前にもこの映画を観ている。
しっかり観たわけではないのだが断片的に記憶がある。
その時もこの件に関しては心に残った。

生き残り800人以上
その中で女性はたったの8人
このバランスの悪さをどうするか

彼等が結果的に選んだ方法が心に引っ掛かって仕方がなかった。

原作ではもっと酷い男女比率なのらしい。
生き残り1万人で女性は16人だとか
本は未読だけどあちこち調べて情報を集めたところによるとそうらしい。

自分が映画のあの場にいたらどうするか考えた。

意地悪な見方かもしれないけど
「子孫を残すために」は言い訳に聞こえた。
本音は「機会均等化」では?
その…言い難いけど性行の。

それにしても本人の意思に関係無く「くじ引き」で決まるとか余りに酷い展開だ。

断固反対だ

自分があの場の上層部ならあれよりマシなシステムを構築する自信がある。

細かく書いてみたものがあるけど割愛する。

だが、あの映画の中では結局全員が大人しくあの形に従っていて、私にはとても奇異に感じられた。
大の大人達が揃いも揃って?と。

あのように閉ざされた世界では個人は黙るしかないのだろうか
そう考えると、とても恐ろしい

集団の前に個人は無いも同じだというのか?

そうはなりたくないな

「みんなも我慢してるんだから」と言うけど
人によって耐性には差がある。
それぞれに他の人には考えも付かない事情があるかもしれないではないか。
それを無視して一律にみんな一緒?
違うと思う。
人はそんなに簡単じゃないでしょう。
あのやり方を決めた後、自殺する人が出ないとも限らない。
性的なものにトラウマ持ってる人という事もあり得るのだ。

原作が気になる
どう書いているのだろう
でもその件に対してそんなに重点を置いていないかもしれない。

サラッとしか書いていないという書評も見かけた。

本の方では"オリビアハッセー"(に当たる女性ヒロイン)は居なくて
初老の女がその役に当たると言う。

そっちは恋愛モノではなく親子愛に近いものになっているらしい。

その方が素晴らしいという感想も見た。

わかる

そっちの方が私のような年寄り(?)には響く気もする

性欲ゆかりの恋愛より、人類共通の自分を無条件で受け入れてくれる親子の愛は普遍的で理想に思える。

思うに
個人差はあれど
男に大事なものは心の方の愛ではなく性行為なのだろう
それとは逆に、女にとっては性行為より心の愛の方が大事

原作では違うようだけど
映画であの部分を描く事に決定権のあった人の感覚では
性行為の機会均等が優先順位として高かったのだろう。
あの形に間違っていると言う意識が感じられないからだ。
「だって仕方がないよね」という感じ
作り手の気持ちが伝わって来る。

時代も大きいと思う
今ならああいう風には作れないだろう。

私がここに拘ってしまうのは
心の通い合いに対する思い入れが強いからだ
どうしても納得がいかない。

勿論、映画としては
歴史に残る様な、すごい作品だとは思っている。

クジで一夜のチャンスが当たった若い男
草刈正雄演じる主人公とオリビアハッセー演じる女性が心惹かれあっているのはわかり切ったことなのに
「クジで当たったから、自分には当然権利がある」と信じて、それを行使しようとする
その感覚の鈍さがどうにも不快だった。

あの閉ざされた世界の中ではおかしくないのかも知れないが、人をそういう風にさせてしまう場の空気というものを恐ろしく思う。