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今朝の月から始まる物語、#シロクマ文芸部

今朝の月は、薄雲の合間から静かに顔を覗かせていた。その輪郭はぼんやりと滲み、淡い光が空に滲み、まるで霧がかったように、儚く、触れれば消えてしまいそうだった。

廃れたビル群の間をぬうように走る一本の道、その舗装された表面には、無数の小さなクレーターが刻まれている。

長い年月を経たものであり、都市そのものの衰退を物語っている。空気は乾ききっていて、わずかな風さえもなく、時間そのものが停止したかのような静寂が漂っている。

都市の中心にある一つのビル。

その最上階のガラス窓の背後には一人の男が立っている。男の手には古びた写真が握られていて、その視線は、窓の外に広がる廃墟の景色と、今朝の月に向けられていた。彼の目には何の感情も浮かんでいなかった。感情というものが、もう彼にとっては無用の長物だった。

この男の名は、もう誰も知らない。
彼がここにいる理由も、誰にもわからない。

ただ、彼がこの都市に残された最後の人間であるという事実だけが、かろうじて現実の一部として残っている。彼はこの都市が生きていた頃からここにいた。そして今も、月明かりの下でひっそりと生き続けている。

かつて、この都市は賑わいを見せていた。高層ビルが立ち並び、夜には無数の光が空に向かって放たれていた。だが、それはもう遠い昔の話だ。都市は衰退し、住民たちは一人また一人と消えていった。生き残ったのは、この男だけだった。彼は何度も自ら命を絶とうと考えたが、いつもその度に、なぜか思いとどまった。その理由さえも、彼にはわからなかった。

今朝の月は、彼に何かを囁きかけているかのようだった。だが、その言葉を理解できる者はもう誰もいない。

男はただ黙って、月を見つめ続けていた。彼の手に握られた写真は、すでに色褪せ、何の意味も持たない紙切れに過ぎなかった。それでも彼は、それを離すことができなかった。写真の中には、かつて愛した者たちの顔が写っている。彼らはもう、どこにもいない。

男はやがて、写真をそっと床に置き、床の上に寝転んだ。彼の周りには都市の崩壊を象徴するかのように、瓦礫と灰が散乱していた。彼は目を閉じ、月が彼の全身を包み込むのを感じていた。その瞬間、男は自分が何者であったかを、すべて忘れてしまった。

時間が流れ、月は次第に消えていった。
空が明るくなる中で、男の姿もまた、静かに消えていった。都市には誰も残されていなかった。

その日の朝、誰も知らない場所で、一つの文明が完全に消滅した。だが、それを記憶する者はもう、どこにもいない。

#シロクマ文芸部 #今朝の月

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