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「罪を犯したことがない者から石を投げよ」っておかしいっす

「罪なき者、石を投げよ」

↑上の台詞は、マグダラのマリアという石打しにされていた女を、イエスキリストが庇った際に発した言葉だそう。

ようは「間違いを犯さない奴なんていないんだから、許したれ」というわけだけど、
では「本当に間違いを犯したことがない人なら暴力を振るう権利がある」のかといえばそれは間違っているだろう。

そもそも、石を人に向かってぶん投げちゃダメじゃん。権利もクソもないって 
と思うかもしれないが、人はみな石を投げたがる。

では、なぜ石を人に向かってぶん投げたがるのか、それは「キモチイイから

なぜキモチイイか、それは共感能力によるものだと考察する。暴力を受ける側の気持ちに立って考える能力があるゆえに、「もし一方的にこんなことされたら、痛いだろう、苦痛だろう、自分に恐怖していることだろう」と共感を巡らせ、支配欲求・優越感を味わうことができる。悪意の本質は「共感」である。

本音を言えばただ「お前に石ぶん投げんの楽しいからもっとやらせろ」というこれこそ倫理観のカケラも無い動機のはずが、論理武装に武装を重ね、「」という便利な手法を使って他者に対する攻撃を正当化するのである。

これは現代社会でも顕著に表れている。

炎上した有名人を罵って挙げ句の果てその家族にまで攻撃する、みたいな現象がよくある。ただしこれは正当化の仕様がないと一目でわかるからまだいい。

タチが悪いのが、正論を用いて批評家気取りでダメ出ししてくるひろゆきの子分みたいなヤツらで、社会的に見れば多くの人を味方につけやすいのが、まさに恐ろしい。現代において正しさは絶対の武器

しかし、この風潮は完全に狂ってる。相手がいくら間違ったことをしていようが、批判や指摘、非難の内容がいくら正しかろうが全く関係ない。相手の心を傷つけ、相手の立場を狭めて実害を出した以上、それは相手への攻撃に他ならない。
「他人に攻撃をしてはいけない」という大大大前提をふまえれば「自分達が正しければ他人に罰を与えてもよい」という論理は成立していない。
「罰」というのは神とか司法とかそういう公的な存在が執り行うものであって、個人がやすやすと使うものではない。

だから、キリストは本来こう言うべきだった。

「暴力ダメ〜〜!!!」











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