『艦これ』と『官兵衛』と『かつ江さん』

『艦これ』に関するこの議論がおもしろかった。

モトケン氏とryo氏の歴史とエンタメの関係性を巡る対話」(togetter)

ツイッター上でのこの手の議論はとかく罵倒合戦、上から目線合戦になりがちだが、これはそうではない。最後まで意見は折り合わないが、「対話」というタイトルがふさわしい冷静な議論が続く。とりあえず、両者が相手に敬意を払って接していれば、主張のちがいは必ずしも不快なものではないということがわかる。

それを前提として、考えたことを少しだけ書いておく。

艦これ』のプレーヤー(「提督」と呼ぶ。ふざけたネーミングではある)たちが『艦これ』をきっかけとして歴史を学ぶのか、エンタメを通して歴史に触れることでその学び方に歪みは出てこないのか、歴史をエンタメ化することは歴史を弄ぶものではないのか、といったあたりが主題であるわけだが、実際のところ、「人による」としかいえない部分はあろう。わかっている人はわかっているだろうしわかっていない人はわかっていない。歴史を曲解する人も出てくるだろうが、これによって歴史を知る機会を得る人もいるだろう。人を殺すための兵器である軍艦を萌えキャラに擬人化すること自体を不謹慎と感じる人もいるだろうし、そうでもないと考える人もいるだろう。そもそも萌えキャラ自体が好きな人と嫌いな人とではまったく異なる意見になるのではないか。

「人それぞれ」だとそれで終わってしまう話だが、ここで示された論点については、もう少し視点を広げてみると面白いと思う。

たとえば今、NHKの大河ドラマでやってる『軍師官兵衛』も、一見史実をなぞっているようだが、実際にはエンタメ作品であり、歴史そのものではない。主人公である黒田官兵衛孝高をヒーローにするために、周囲の人物を「悪者」として描いている箇所が随所にみられるが、実際の戦国武将たちをそうした一面的な見方でとらえることはできないし、現代とはまったくちがう当時の社会情勢やものの考え方の中で行われた行動を現代の目で見ることも、適切とはいいがたい。

ちょっと前に、鳥取城籠城戦のキャラクターとして作られた「かつ江さん」が不謹慎としてお蔵入りになった件を思い出す。あれは有名な高松城水攻めとともに、その『軍師官兵衛』が仕切った戦いだったわけだが、批判は「悲惨なできごとをゆるキャラにするとは不謹慎だ」というものだった。しかし、それなら、『軍師官兵衛』が高松城の悲惨な籠城戦をヒーローたる官兵衛の活躍のエピソードとして描くのは不謹慎ではないのだろうか。そもそもドラマで丸ごとカットされ、なかったことにされてしまった鳥取城の人々の苦しみは軽んじられていないのか。ああしたエンタメで歴史を学んだ気になっている人はいないのだろうか。

こうしてみると、『軍師官兵衛』も、それ以外の多くの時代劇も、歴史上の人物をキャラクター化し、悲惨な戦いを娯楽として消費する行動という意味で、『艦これ』と何ら異なる部分はないのではないかと思う。異なるとしたら、太平洋戦争はまだ経験者が生きているという時代の違いぐらいだろうが、戦国時代のことでも「悲惨な戦い」ととらえる考え方があるなら、その理屈は成り立たない。すると残るのは、「萌えキャラが嫌い」という感情論だけではないだろうか。好き嫌いは自由だが、だから『艦これ』はだめだという理屈なら、「好きだからいいじゃん」と同レベルであり、優劣はない。

別に歴史エンタメがだめだというのではなく、そこから何を学ぶかは別の問題だと思う。学ぶ過程で歪んでしまう人がいることは否定できないがそれでも何も知らないよりはましと思うか、歪んでしまうぐらいなら知らない方がましと思うかは、人によって異なるだろう。私は、どちらかといえば、前者に近い考え方。個人的には『艦これ』より『永遠の0』の方がはるかに「害悪度」が高いように思うが、それもまた考え方次第。自分のブログにも書いたが、「かつ江さん」がメディアに取り上げられる以前に鳥取城の存在を知っていた人はほとんどいなかったのではないかと想像する。関心を持つきっかけになるだけで、エンタメは充分その役割を果たしていると思う。


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