「連帯」と「違いを受け入れること」

パリで同時多発テロが発生し、多くの犠牲者が出ている。ISISが犯行声明を出して、それが本当かどうかはともかく、実行犯たちが「Allahu Akbar」と叫んでいたという証言もあるから、少なくともイスラム教過激派の犯行ではあるのだろう。パリといえば1月のCharlie Hebdo襲撃事件がまだ記憶に新しいが、今度はあのときよりさらにたくさんの方が亡くなっている。まずはご冥福を申し上げたい。けがをした方、その他さまざまな被害を受けた方がいよう。併せてお見舞い申し上げたい。

で、ここで書きたいのは、テロ事件そのものについてではない。海外でこういうことが起きると必ずその後国内で起きる、ある現象についてだ。

こんなに大事件なのに日本のマスメディアは報じない、と声を上げる人がいる。もちろん報じていないわけではないが、扱いが小さすぎる、と言っているわけだ。国内で大きな災害や事故、事件などが起きたときのように、通常の番組を中止して特番を組み、リアルタイムの情報を流し続けるべきだ、ということだろうか。

そもそも日本人が海外に対して関心を持たなすぎる、と論じる人もいる。マスメディアが事件を大きく取り上げないのは、視聴者、読者、ユーザーの関心の低さを反映したものにすぎない、という。そう論じる人はたいてい、関心が高い方の人なわけで、メディアへの批判は、間接的なかたちをとった、そうした多くの日本人への批判でもある、という要素は否定できないだろう。

しかし、と返す人が出てくる。同じような事件が世界の他の場所で起きたとき、同じように大きな関心を払ったか、と。たとえば2015年10月10日、トルコの首都アンカラで連続爆破事件が発生し、少なくとも95人が亡くなった。また2014年10月1日には、シリア中部のホムスで学校を狙った爆弾テロが相次いで発生し、児童や生徒を含む40人以上が死亡、115人がケガをした。これらは人数だけからいうなら、今回の事件に匹敵するだろう。こうした地域ではこれ以外にも数多くのテロ事件が起きたりしているから、それらを合わせればはるかに多くの人々が犠牲になっている。これらに対して日本のメディアは、日本の人々は、どれだけの関心を払っているだろうか、と。

ひるがえって日本の状況は、という点に関心を持つ人もいるだろう。折しも日本政府は今年、集団的自衛権を行使する方針に転じ、そのための法律を整備した。移民を事実上ほとんど受け入れていないこの国では海外からテロリストが入り込んでくるリスクは相対的には低いだろうが、国外に出た日本人が巻き込まれる場合を含め、今後テロ事件に巻き込まれるリスクがこれまでより高まるであろうことは容易に想像できる。

日本が同じ道をたどってはならない、と主張する人がいる。仏当局や米国は、今回の事件がISISによるものとの見方を固めたようだ。ISISから出された犯行声明では、フランス軍によるシリア空爆などが理由とされている。日本も、集団的自衛権の行使でそうした地域でより積極的な活動を行うようになれば同じ道をたどる、と今後を危惧する意見が散見される。

逆に、だからこそ集団的自衛権が必要なのだ、と主張する人もいよう。国内でのテロ対策は内政の問題だが、テロの「源」を断つために、中東や北アフリカでの諸国の軍事活動により積極的に参加すべきだ、という意見になるのかもしれない。結果として高まるであろう日本人へのテロのリスクに対しても敢然と立ち向かう、それもまた積極的平和主義の一部だ、ということだろうか。

人がそれぞれ自分の意見を持ち、それを表明することは悪くない。これらの問題には必ずしも「正解」があるというわけではないし、仮にあるとしてもその実行は実際にはかなり困難だ。その意味で、意見のちがいがあるのはある意味自然なことだろう。意見を交わすことももちろん重要で、それこそが民主主義社会の基礎をなすものといってもいいのではないか。

しかしそれが、自分と異なる意見の持ち主に対する罵倒や憎悪につながっていく方向は支持できない。多くの場合、異なる意見の持ち主は愚かでも邪悪でもなく、単に異なる考えかた、行動のしかたをとっているにすぎない。そしてその多くは、異なる情報に触れていたり、異なるバックグラウンドがあったりするために生じるものであろう。知らないのであれば教えてあげればいいし、めんどくさければ放っておけばいい。意見の交換は抑え込むべきではないと思うが、少なくともそのために罵倒する必要はないしすべきではない。

個人的には、ヘイトスピーチ規制のようなものも必要最小限にとどめるべきと考える派なのだが、法はともかく社会的なルールあるいはマナーとして、乱暴なことば遣いを抑制することは必要であろうと思う。テロが自分の意見を通すためルールに背いて暴力を使うことなのであれば、自分と異なる意見の人に対してバカだの死ねだの国へ帰れだのといった罵声を浴びせることは、言論よりテロに近い行為なのではないだろうか。

いま、マスメディアやネットのあちこちで「solidarité」ということばを見かける。団結や連帯を意味するこのことばは1月の事件のときにも多く見られた。いってみればフランスという国が拠って立つ基本的な理念の1つだろう。それが世界のあちこちから集まっている。それが被害者に寄り添うものであるなら、いいことだと思う。しかし同時に、同じ考えの者同士が集まって異なる考えの者と戦うという意味で使っている人もいるようにも見えて、やや不安になる。

「連帯」はむしろ、「違いを受け入れること」ではないだろうか。意見を異にする人と別に無理やり合意したり仲良くしたりする必要はないが、排除ではなく共存への道をさぐることは必要だろう。フランス国内では、事件を受けて、テロ対策の観点から、難民受け入れの是非論が再燃する動きがあるらしい。事件の被害者の中に難民もいたかもしれないし、そもそも自国内でのテロを含む危険を逃れるために難民となった人がほとんどだろう。「連帯」とはどういうことなのか、あるところで立ち止まって考えてみる必要があるように思う。

ひるがえって、パリからそれなりに離れた場所にある日本にいる私たちができることは何だろうか。さすがにパリだと日本人も多く住んでいるし現地に知り合いがいるという人も少なくないだろうが、それでも日本の大多数の人には「遠い国のこと」というのが実情だろう。政府レベルでは統一した方針が必要だろうが、個人レベルではさまざまな考えがあってよいと思う。連帯のメッセージを発信するもアイコンを三色旗模様にするもよし、それより国内の課題の方が重要、というのも含め、それぞれ思うところをやったりやらなかったりすればよい。多様性は民主主義社会における力の源泉だ。

ただ少なくとも、自分と異なる考えの人をその違いゆえに罵倒したりするのはやめよう。特に、こうした事件を奇貨として自分たちの主張の根拠づけに用いようとする動きは、それが高じて相手を罵倒する動きになりやすいから警戒が必要だ。違いを受け入れ、「言論のテロ」に与しないという点でこそ、連帯が必要なのではないだろうか。

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