「人間らしい」ということ

以下は2009年10月にブログに書いたものの転載。今でもこの疑問というか違和感というか、は解決していない。

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よく使われてて一見当たり前っぽいのだが、よく考えるとあれ?なことばというのがよくある。そういうものについひっかかっちゃう性分なもので、人と話がかみ合わなくなってしまって困ることがけっこうよくある。もっと頭のいい人はもうとっくに理解しきっちゃってるのだろうが、こっちは残念ながらそうではないもので、そういうことが頭をよぎるたびに、あれこれ考えをめぐらせたりするはめになる。

で、今回もそういうことが頭をよぎったわけだ。よく考えると「あれ?」なことばの最たる例の1つ。「人間らしい」について。

「人間らしい」ということばはいろいろなところで使われると思うんだが、ここでイメージしているのは、「人間らしい生活」、「人間らしい労働、働き方」、「人間らしい生活、くらし」とかの場合の「人間らしい」という使い方。なんとなく分かったような気がするんだけど、実際のところ何が「人間らしい」のかについて、あまりつっこんだ話を聞いたことがない。誰だってわかって当然、てな感じでみんな使ってるけど、本当にそうか?これって、「人間とは何か」みたいな、けっこう本質的な概念のような?

何より、「人間らしい」ということばが実際に使われる状況に出くわすたびに、何か強烈な違和感みたいなものが湧き上がってしまう。なんだかわからないが「ちがう!」という感じ。で、機会があったので少し考えてみたわけだ。

こういう問題にすらすらと答えられる方もいるのだろうが、私には無理。なのでまずは辞書。「らしい」には助動詞としての「らしい」と接尾語としての「らしい」があるらしい。この1つ前の文章の文末の「らしい」は助動詞としての「らしい」らしいが、この記事で問題にしてる「人間らしい」の「らしい」は、接尾語のほうの「らしい」らしい(助動詞だと、「彼は人間らしい」がえらく失礼な意味になっちゃうらしい)。で、後者の「らしい」は大辞林にはこう出てるらしい。(いいかげん「らしい」はしつこいのでもうやめ)

らし・い(大辞林 第二版より)
(接尾)
〔形容詞型活用 [文]シク ら・し 中世後期以降の語〕名詞・副詞、または形容動詞の語幹などに付いて形容詞を作る。
(1)…としての特質をよくそなえている、いかにも…の様子である、…にふさわしい、などの意を表す。「男らしい」「子供らしい」「学者らしい」など。

ふむ、つまり人間としての特質を備えてるってことか。ほうら本質的な問題になっちゃうじゃん。はて人間の特質とは?・・・これも素人なので、思いつくままに羅列してみる。まずは証明の基本で、反対の「人間らしくないものやこと」を挙げるところからやってみよう。人間らしくないっていうと、うーん・・

(1)機械等、人工のものであって、人間のようなあいまいさや弱さ等がみられないもの
(2)動物等、人でない生物
(3)悪魔のようなひどいふるまいをすること
(4)神様のような気高いふるまいをすること

グーグル様にはかなわないが2~3秒で思いつくのはざっくりとこのあたりだろうか。つまり、機械らしくない、人工的でないものが「人間らしい」、獣っぽくないものが「人間らしい」、悪魔のようでもなく、神様のようでもないのが「人間らしい」、と。ふむ。悪魔と神様を「同一軸」上の反対概念と考えると、3つの軸に整理できるだろうか。生物的、文化的、倫理的といった感じ。最初の2つはそれぞれ対立概念があるから、一方に「人間らしくない」の極があって、その反対が「人間らしい」ほうの極。3つめのは同じ軸の両極端が「人間らしくない」ってことだから、「人間らしい」のはまんなかへんということになる。どちらに寄りすぎても「人間らしくない」ってことなんだろうなあ。

さてと。考えているのは、「人間らしい生活」、「人間らしい労働、働き方」、「人間らしい生活、くらし」とかの場合の「人間らしい」という使い方についてだった。ここまでがいいとすると、ここでいう「人間らしい」は、上の(1)~(4)のどれに当たるんだろう?

ふむ。「モダンタイムス」的な意味合いでいくと(1)かな。機械を「人間の奴隷」と考える視点でみても、「人間らしい」はその対極になる。人は24時間働き続けるわけにはいかないし、無償で酷使していい存在でもなかろう。その意味では(2)も当たってるか。人間は犬猫より高度な知的活動を行うことができる尊い存在だから、人を犬猫のように扱うわけにはいかない、みたいな(犬猫の中には半端な人間よりいい待遇を受けている場合があるようだが)。

さて。ここまでもいいとしよう。こういう抽象論にとどまっていれば、話は比較的穏やかにすむわけだが、具体的なケースになると、とたんに話はせっぱつまってくる。たとえば最近の話で「人間らしい生活」といえば。

「月に一度のささやかな贅沢、回転寿司も行けなくなった」…母子加算廃止で
月1度の回転ずしがささやかなぜいたくだった。生活保護を受ける京都市山科区の○○○○さん(46)は長男(18)と2人暮らし。向き合って座り、積み上がった40枚以上の皿を見る時だけは、貧しさを忘れられた。毎月約2万3000円の「母子加算」は、06年度から減らされ、翌年度に打ち切られた。回転ずしはあきらめた。
△生存権訴訟 「旅行の回数減らした」「480円の刺身が買えない」「子供の散髪は年数回」
△さんは、これまで週1、2回スーパーで購入していた480円の刺し身を購入できなくなり、果物も100円のバナナしか買わなくなった加算廃止後の厳しい生活実態を吐露。友人に旅行に誘われても断っているといい、「惨めな気持ちになる」と述べた。
高校生の長男と二人暮らしで母子加算を受給していた◎◎◎◎さん(45)=同=は「冷蔵庫に何もないのに(おなかをすかせた)息子は何度も開けては見て、すごく情けなく悲しくなる。ぼろぼろのズボンや靴で、散髪も年に数回しか行けない。友人にも引け目を感じているはず」と話した。

元記事はいずれも消えているので不本意ながら「痛いニュース」経由。固有名詞はこの文章では不要と思うので伏せた。こういう話題は2ちゃんねるで「食いつき」がいい。「回転ずしで1人20皿とか贅沢!」とか「自分はもう何年も刺身なんて食ってない」とかいった非難ごうごうになる。こういう「俺のほうが」話は尾ひれがつきがちだが、実際、そう書いている方々の中にも、同じような、あるいはもっとよくない状況に置かれた方がいるんだろう。生活保護による給付額よりも低い所得で暮らしている人が少なからずいることはまぎれもない事実だし。

どのくらいの水準の話をしているのか、あるいはどのくらいの人数がいるのかについてはともかく、こうした事例自体は別に最近に限った話ではない。たとえばこのページ「私たちのくらしと政治 3 ~ 600円は人間らしいくらしか ~」で取上げられている件は、有名な、いわゆる「朝日訴訟」のケースを取り上げたものだ。訴訟提起は1957年、最高裁判決が出たのは1967年。1日当たり600円は憲法が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」、これを「人間らしい」と置き換えるなら「人間らしい」暮らしといえるか、というのが争点だった。リンク先には、国の主張として「ちり紙が足らなければ新聞紙を使えばよく,頭は丸坊主で十分だ。」みたいなことが書いてあって、時代背景を無視すると「これはひどい」となるのは必定なわけではあるが、ここで憲法論をぶちたいわけではないし、「ぜいたく」の定義づけをしたいわけでもない。

条文に書かれているのは抽象的な理念みたいなものでしかないから、ある具体的な状況を「ひどい」「ひどくない」、堅くいえば「受忍限度を超える」「超えない」と判断するのは、その時点でのいわゆる社会通念、つまり常識であるわけだ。当然そこには、政府の財政事情やら経済情勢やらも関係するし、政府の無駄遣いやら金持ち優遇やらをどげんかせんとみたいなものもあるし、他の使途、たとえば道路やらダムやらとの優先順位なんかも関係するだろうが、それらも総合してつきつめると、「このために、私たちが収めたあるいはこれから納める税金、または私たちに対して使われるかもしれなかった税金、または私たちが納めなくてもよかった税金が使われていいのか」という判断を、私たちは社会全体としてしていることになる。

となると、上記の「人間らしくない」例として挙げた4つのうちの(3)(4)が関係してくるはずだ。「私のことはいいからその人たちを助けてあげて」となるか、「その人たちより私をどうにか助けてくれ」となるか。多くの人は悪魔のようでもなければ神様のようでもないから、その間で揺れ動くだろう。困ってる人たちは助けてあげたいし、でも自分の負担が増えるのはいやだし。自分が省みられないのに誰か他の人のために金が使われていくのも心穏やかではすまないだろう。母子加算や老齢加算のケースについても、復活に対して冷ややかな意見はある。「人間らしからぬ」冷たい態度でもあるが、同時に「人間らしい」弱さともいえる。どうするのがいいのか迷う人もいるだろう。まさに「人間らしい」迷いではないか。

要するに言いたいのは、ある人々が「人間らしい生活」を送れないでいるということは、他の人々の「人間らしい」判断の結果でもあるのだなあ、ということだ。人間がいろいろな意味で多様であるために、誰がが「人間らしく生きる」ということと別の誰かが「人間らしく生きる」こととがうまく両立できないケースが出てきてしまう。「人間らしさ」が「人間らしさ」を阻むというのは皮肉な話ではある。

なんとかしなきゃいけないケースはたくさんあるし、やりようによってはなんとかできる部分もある。でもねえ、誰もが「人間らしく」ふるまうことと、誰もが「人間らしく」生きることは必ずしも同じではない、ということは意識しておいたほうがいいと思う。たぶん、ここが私の違和感の源だ。「人間らしい生活」を主張する方々は、皆が「人間らしく」ふるまえば自然と問題は解決に向かう、と無意識に想定してはいないだろうか。かつての社会は「人間らしい」社会、あるいは人間を「人間らしく」扱う社会だった、と無意識に想定していないだろうか。もちろんそういう人ばかりじゃないんだろうけど、全体としてはなんかそう見えてしかたないのだな。たぶん、実際はそうじゃない。人間がすべて「人間らしく」生きていた時代も、すべて「人間らしく」扱われた時代も、かつて一度たりともなかったはずだし、今だってそうだ。

しかたがない、と言ってるんじゃないよ。どうしようもない、と言ってるわけでもない。希望は捨ててないし、自分にできることは少しずつでもやろうとは思う。アリストテレスは人間を「理性的動物」と定義したそうだし、それも「人間らしい」に入るわけだからね。昔もそうした人がいて、今の社会をかたちづくるのに貢献してきたはず。今バトンを持ってる人たちは、今何をするか考えなきゃ。人はそれぞれ考え方がちがうから、それぞれ自分が考える「人間らしい」を追っかけてくことになるんだろう。「自己責任」ということばは最近風当たりが強いけど、自分のことをできる範囲で自分がなんとかするのも「人間らしい」の一部じゃないかと思うな。政府に「なんとかしろ」と騒ぐのも「人間らしい」じゃないか、といわれればそれまでだけど。

・・とするとあれだな。人間がやってることはほとんど「人間らしい」ってことになっちゃいそうだ。あれ?となるとこの社会は、そのままでもきわめて「人間らしい」社会ということになるのか?うーんなんだか全然わかった気にならないぞ、というあたりでもう今日はやめとく。うーん。

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