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錯覚の形相


ふとした時、自身の顔が「くさやを鼻に押し付けられ、土足で迫りくる劇臭に抗う用の鬼の形相」をしている事に気付いた。


実に険しい。


何があったかはさておき、自分自身ですら把握していない「顔」をしている時がたびたびあるように想う。


オレってこんな顔してたんだ? てか園児が直視したら、夜泣きする表情じゃねーか。


極論から言うと分かりづらいのですが、自分が見えている/把握しているこの世のモノ全てが、本当にその姿形をしているか?って立証出来ないですよね? 自分の目に写る自分の姿が、他人の目に写ってる姿と一致しているのか?って事です。


もしこれが各個人で完全にバラバラだったら、知人友人それぞれに相対した「自分」の姿が存在していて、自分ではどのような姿に写ってるか分からない。


じゃ自分が見ている自分の姿は、一体何なんだろうか?


自分にしか写らないモノだったら、共有のしようもないし、良し悪しの判断も不可能だ。0に何を掛けても0のようなモノだから。


そう思うと、自分と気が合ったり好いてくれてる関係性の知人友人は、良く言えば見た目だけで繋がって無い、心で通じあってる。気が合う。性格が好き。とかなんだろう。 でも、マイナスな事を言うと、それってある意味、まるっと錯覚なのかもしれない。


だって、見えてるモノの共通性が無いって事は、基準となりうる線も引けないし、価値観云々の概念が出るに出られない感じになるだろうし。


自身では、「くさや鬼」の表情をしていると思ったら、他人には白馬に乗った王子が優雅にアッサムティーをすすってる表情に写ってるかもしれないし。小指はもれなくデフォルトで立ってるんだろう。



今見えてるモノの信憑性なんて所詮この程度なんだから、ちっぽけな事で悩む事自体がナンセンスだと思うよね。


小っせぇ事なんて気にせずに、もっともっと”やっべ 楽しい”で覆い尽くされるような世の中にしたいです。


リビングも寝室も風呂場もトイレも。”やっべ 楽しい”で溢れやがれ。そろそろさ。





お気づきの方がいらっしゃると思いますが、ずっと「くさや鬼」の表情で執筆してます。強く握り締めた拳からは、それはそれは苦っぇ汁が滴ってます。


所詮そんなもんです。



かなり久々に吉報が続いてて、いよいよこっちのターンだな?と思ってはいるのですが、イマイチ何かしら負の邪魔が入って波に乗れない感じです。


しつけーよ パンデミック。



今に見てろよ。5月のある日を境に、エンタメの世にひっくり返してやるから。この日が転機になると直感してます。


みなさん楽しむ準備は出来てますか?





まずはクサヤを鼻から引き離さないとね。鼻に力入れ過ぎて痙攣しそうだわ。