「明るいニュース」と「暗いニュース」

 何をどう言い繕うと、売上高が下がっている以上、出版/書店業界の景気を「いい」ということはできない。しかしながら、経済的に「景気がいい」のと「幸せである」かどうかは一要素関係でしかなく、相関性も因果性も読み込むことは危険である(「ない」とは言わない)。「幸せになる」ためにはどのようなことが必要か、という哲学的問いを考えるには紙幅が足りないが、たとえば、「衣食足りて礼節を知る」や「貧すれば鈍する」という言葉を参照しておくことで十分だろう。別の角度から考えてみれば、「良いニュースを提供する」ということは「良い気を提供する」ことであり、そこには「好循環が生まれる」という発想は成立する。その一方で、「良いニュース」が「好循環」を生み出すまでのタイムラグの途中で、日々の生活をしなければならない人間にとっての「衣食」はどのように担保されるのだろうか。「良いニュース」を提供するためにはその担保を明示する必要がある。それがないのであれば、その「ニュース」は安全地帯からの砲撃であり、いわばTwitterにおける匿名性に守られたアカウントと同じく、「無責任」と非難されても仕方がない。
 それでは「暗いニュースの提供」というのはどういうことになるのだろうか。これは「景気が悪い」状況における原因と責任の追求にある。帰責性を個に求めるかシステムに求めるかの問題はあるが、少なくとも、現状の状態に陥らせてしまった「責任を問う」作業は不断に必要である。なるほど確かに「悪いニュース」だけを見てしまうと絶望感に苛まれ、また、新規参入に対する「障壁」となってしまう。他方で考えておかなければならないのは、この状況に陥らせたにも関わらず「逃げ切り」を図ろうとする個々人や制度に対して「システム責任」を問うということである。なぜなら「逃げ切り」の人々は、実に現役世代に対してフリーライドしようとしているからである。すなわち、「良いニュース」によって「好循環」を生み出す前に、この「フリーライド」を止めさせることが必要なのである。それは場合によっては力づくになるのかもしれないし、そうなった場合には「暴力の肯定」という別途重大な問いが立ち上がる。それゆえ、そこには「法の力」が必要なのであるが、その「法」とは公法的なものでなければならない。すなわち、商法会社法上の刑法的要素を基軸とした追及が必要である。

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