見かけ上の問題と本当の問題

はじめに

不機嫌な人が苦手なのに不機嫌をまき散らすようなものを書いてしまったことが残念ではあるけれど、今の自分が考えていることを書いておきたかった。

緊急事態宣言以降、職場の不機嫌マンと会わなくなった。
気持ちがとても楽になり、私と不機嫌マンとを切り離してくれた緊急事態宣言には感謝している。

不機嫌マンは上司でもないのに偉そうな態度で指示したがる。全くそんなことはないのに自分を優秀だと思い込み、思いどおりに周囲が動かないと不機嫌をまき散らす。私も周囲も、この人の顔色を窺うのに疲れている。
出勤したら顔色を窺う。そんな毎日に消耗している。
他人の不機嫌に振り回される。そんな毎日を終わらせたいと思っている。

口癖

不機嫌マンは、己の行動をいちいちこちらに伝えてくる。こちらに頼みたいことがあれば「〇〇をお願いします」とでも言えばいいものを、語尾に「覚えといて」と必ず付ける。

「明日これを持っていくの、覚えといて」
「これ、Aさんに伝えるの覚えといて」
「Bさんが来たらこれ渡すの覚えといて」
「これ、注文するの覚えといて」
「これ、ここに置いておくから覚えといて」
「覚えといて」
「覚えといて」
「覚えといて」

もう一度書いておきたい。不機嫌マンは上司でもなんでもない。ただの従業員である。私とは指揮命令関係にはない。さらに書いてしまうと優秀な様子もなくリーダー的でもないが、優秀でリーダー的であると自称している。そして、指示したがる。なにかにつけ偉そうな態度をとる。そんな人が「覚えといて」を連呼する。鬱陶しい。つらい。
覚えておいてと言うからこちらがやるのかと思いきや、自分で対応していることが多く、どうして「覚えといて」と言うのかはわからない。私は必要のないことで話しかけられ、時間を奪われていく。消耗する。疲労する。

転機

そこへ緊急事態宣言である。職場は出勤組と在宅組に分かれ、私は不機嫌マンと顔を合わせることがなくなった。ラッキー。

不機嫌マンがいなくなった職場は馬鹿みたいに快適だった。「覚えといて」が消えうせただけでこんなに違うのか。自分で驚くほどに気持ちが楽になった。鬱陶しさが消滅すると仕事ってこんなに楽しかったのか。
仕事は増えたけど、残業することもほぼなく快適に仕事ができている。会社に行きたくなくて行きたくなくて仕方なかったのが、明日はこれをやろう、と前向きな気持ちで出勤できている。この変化は何なのか。

お守りをやめる

大きな理由は、不機嫌マンのお守りから解放されたからだと思う。

私は不機嫌マンが「覚えといて」「覚えといて」と言うのにいちいち対応してメモを取ったりしていた。不機嫌マンはそんな私の行動を見て満足そうにしていた。これは言ってみれば不機嫌マンのお守りをしていたのだと思う。DVの人が暴力から逃れられないのをどうしてなんだろうと思っていたけど、自分も同じようなものだった。不機嫌をあてつけられても何でもないかのように受け流していた。あごで指図され、雑に扱われることに慣れてしまっていた。そんな扱いを受ける筋合いなんてどこにもないのに。
職場で波風を立てたくないという気持ちから、そんな態度をとられてもやめろと言わなかった。もうお守りなんかしたくない。嫌いなものは嫌いでいい。不機嫌な人の顔色を窺って、不機嫌な人のお守りなんかもうやらなくていい。

私は他人のお守りをしないことの快適さを知ってしまった。そして、自分がどれだけ不機嫌マンの相手をしていたのかに気が付いた。

不機嫌マンにいなくなってほしい。不機嫌マンに消えてほしい。
不機嫌マンが転職していなくなれば、私の苦痛は消える。
不機嫌マンがいなくなれば、私の問題は解決する。
そう思った。

その一方で、こうも思った。
本当にそうだろうか?

本当の問題は自分

そもそも、私は何がそんなに「嫌」だったんだろう?

確かに私は不機嫌マンが嫌いだった。だけど、それ以上に私が嫌だったことがあった。それは、能力のない人に上から押さえつけられて仕事をすることだった。

不機嫌マンがいなくなりひとりで仕事を進めていくうちに分かったことは、自分でやり方を考え、関係者と相談して進めていくのはなかなか楽しいということだった。主体的にやると不都合も自分に返ってくるけれど、やりがいとか手ごたえみたいなものも直接感じることができる。
不機嫌マンがいたときは、私が仕事をしていると後ろに立ってモニタをのぞき込んでは求めていないアドバイスをしてきたり、「ごみを捨てておくの覚えといて」というような緊急でもなく自分でできるようなことを頼んできては私の仕事を中断させた。私が不機嫌マンの担当ではない資料を作っていると、そうやって集中して仕事ができるのは俺が他のことを引き受けているからだと言い、私が不機嫌マンから離れて同僚と急ぎの作業をしていると「仕事の優先順位が分かるようになろうね」と言って不機嫌をまき散らした。

不機嫌マンがいたときは、できる限り不機嫌マンの言うとおりに動いていた。会社で働いているので周囲と協力したほうが成果がでるものもあるし、なによりご機嫌を窺っていたほうがこちらも嫌な気持ちにならないからだ。
だけど、不機嫌マンのように能力が高くないのに他人に指示を出したがる人に従うことはなかった。指示を出すことに喜びを感じるような支配的な性質を持つ人のケアまで自分がする必要はなかった。私はもっと主体的に仕事をして、その結果を受け止めればよかった。

こうして考えてみると、不機嫌マンの存在は見かけ上の問題なんだと思うに至った。
本当の問題は、付け込まれるような自分でいたことだ。
他人の顔色を窺って波風立てないように振る舞ったこと。
自分で進めていきたいのに、他人の指示がなければ動けないような自分を演じていたこと。
自分がどんな風に仕事をしたいのか、自分で分かっていなかったこと。

自分で進めていきたいのなら、伸び伸び仕事がしたいなら、良くも悪くもその結果を受け止める覚悟が必要だった。自分でやりたいと思っていながらお手伝い的なポジションに留まろうとしていたから、不機嫌マンがいちいち絡んできたのだと思う。

不機嫌マンがいたことで、自分に逃げてる部分があることが分かったし、自分がどんな風に仕事をしていきたいのかを改めて考えることができた。
ここまで考えたら、不機嫌マンの存在は以前ほど重く感じられなくなっていた。不機嫌マンがどうのこうのよりも、確立すべきは自分がどう在りたいかである。
もちろん転職でもしていなくなってくれたら万歳だけど、他人の存在にいちいち振り回されるのはもうやめる。
妙な他人やおかしな関わり方をしてくる人を寄せ付けず、ケアせず、堂々と「うるせえよ」と言う強気と胆力を自分のものにする。淡々と自分の仕事ができるよう、言いたいことを言えるように私は変化する。

もっとハッピーになるぞ。

おしまい


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