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濃度

そういえば3月に祖父母の家に行った

岩手の国道の通るその町は五年ぶりで、
9歳くらいから夏休みになると一人で新幹線に乗って別荘気分を味わった

年月が経つということは、変化するということだと人間社会の中ではよく思う
良くも悪くも大小も異なるけど必ず変化する瞬間があって、
その瞬間に変化をしていく事って自分を知るきっかけになってもっといいやつになれると思う
周りにいる大抵どうしようもないやつはそういう瞬間をその知らない顔をして通り過ぎたやつだと思う時がある

ザリガニやオタマジャクシを探した田んぼ、
細くて汚いが冷たい水が流れる水路は埋め立てられて硬いコンクリートに、
フィギュアやエロゲー、都市伝説の本でごみごみしていた古本屋はマックになって、
おつかいや甘いジュースを買いに行ったローソンは知らないラーメン屋になって、
1人で自転車や縄跳びの練習をした広すぎるパチンコ屋の駐車場は小さなアパートで埋め尽くされていた

気仙沼や陸前高田に行く途中の自然は相変わらずで、津波で攫われたまちまちの復興作業は5年前とはあまり変わっておらず、その歴史を残すために建てられた仰々しい文化館とその先を覆う太平洋と重機のアンバランスさを横目に、一本松が遠くに見えた

横にある実際に津波で崩壊したくすんだ、誰も住んでいないアパートの方がよっぽどうったえる何かがあった
自動販売機のよく冷えたヨーグルト飲料でまったりとした口の中を太平洋の穏やかで強い海風がすーと通った


✴︎



そういえば祖父母の家にいるニートの叔父とも久しぶりに会った
変わらずで、昔はリサイクルショップをよく巡ってその道中に自動販売機で買ったレインボーのボスのカフェオレを飲みながらいろんな話をした思い出があって、年月が経って今の自分は、今回はどんな話をするのだろうとワクワクしていたのに、

でも前みたいなワクワク感はなくて全ては必然の範疇を越えるようなことはなくて、自分のこうして書いている文章を見せても、もっと短くできるとご指導されてかなしかった
これは傲慢な気がある
他人を社会性で測るということ

なんでこんなことを思い出したかはよくわからない
頭の中にある空白がたまたまそれらで染まっていって高崎線の揺れる直線の中でなんとなしに思ったことをただ書いただけなのだ

人間って新宿を歩くと実感するけど最低で自分のことしか考えてないなって思う
時間、責任、快適さ、いろんなものに追われて余裕がなくて立ち止まって足跡を聞くと人間の本性が足裏から伝わってくる
そんな見たくもないものが自分の中にもあって、ぼうとしてるとそういう雰囲気が入ってきて忙しくなっていろんなことからぷつぷつ切り離されていって、そうした宙に浮いたぶつぎりのやさしさの神経回路は放っておくと戻らなくなる気がする

朝トイレで尿をする夢を見た
夢の中では確実に便座を開けてトイレをした

トイレをしたという日本語はネイティブぽくなくて具合が悪い

確実に用を足したはずなのに起きてみてズボンを触ると乾いた布の人間の温もりと正反対の無機質なその布に触れて悲しくなって、一体何が違うんだろうと思った
夢の中で用を足すということ、あの実存感はどこからくるのだろう
現実で尿を出すことで身体から不要になったそれらを体外に排出することで神経は快感を与えるホルモンをだすだろう、そうしてあの快感が生まれる
夢の中でも確実に尿を出したのである
それは言い換えればあの快感を尿を出さないで不安定な夢の中でホルモンがでたのだろう
じゃあ一体現実と夢の違いってなんだろう
誰かに殴られて痛いのだって皮膚の神経組織が刺激を脳に伝えて頭はその部位を痛めた事を知覚してあの痛みを痛みとして捉えるのだから、
現実と夢の違いという話においてはそれは現実と触れ合うかどうかであって、日常の日常性にその事物、物事がその日常性に収斂していくかの違いで
これは大きな違いである
小説の中でいくら美人で気立てのいい女と良い関係になっても現実のあの肉体的な温もりは表皮と内面では感じることができない、と思っている
それも神経なんじゃないかというのもあるが、それは違うと思う
原子が近くの原子と結びつこうとする感覚
あれに近いようなものはやはり現実でしか得られない
現実に触れる、日常性に収束することは自分の歴史を作ることであって、おれはすきだけど寂しい事の方がおおい

あの遠い星だってなんとなく星と感じるだけで、実際よくわからないしもうないかもしれない星にリアルを感じるかというとそうでもないように濃度という観点も現実を現実たらしめるようだ

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