ヌードについて

小学生の頃、父方の祖母が亡くなった時、潤いが全く無くてしわくちゃになった白い皮膚に包まれた生気を一切感じられないその遺体を木製の長方形箱の顔にあたる部分のプラスチック板越しに見て、祖母とは生前ほとんど関わりがなかったけれど、人間は結局本当はこんなに醜くて空っぽなんだと思って泣いてしまったことがあって、
僕が地元の少年団でキーパーをしていると話した時に、
「キーパーは頭が良くないとダメだからね」とか、「あの子は有名な大学に行くから東京で一人暮らしするんだって」とかいう親戚のおばさんに、
「なんで君がそんなに泣いているの」と言われたことがあって、関係の有無濃度で泣く泣かないを決められるとは到底思えなかったけれど、そのおばさんがいうことはなんだか最もらしいような空気を感じたから、トイレに逃げたことがあった。

棺桶の中にいるこのよくわからないおばさんのようにいつかこうなるのに、どうして他人のことばかり気にして、他人のことばかり話して、そんな時間は単なるその場の見栄を満たすだけで、何にもないのと同じなのになんだか忙しそうにしていて、周りもそれが普通であるようにしているその空気感が子供ながら本当に苦痛で、

その当時くらいが、薄い雑誌の中程にあるモノクロのヌードを見た始まりであって、
当時は理由もなく触発される何かがあって、これを見るとなんだか面白いとも違うし、もやもやするけれどももっと見たいという気持ちになって、道端、ひと通りのある程度ある草むらの影によく捨てられていたエロ本を探して見ていた。

中学校、高校に上がってもそういうものに対する興味は尽きなくて、媒体がデジタルに変わっていって、でも理由もなく単に猥褻で興奮するから見るというのは変わらなかった。

生のヌードを見ることが増えてきて、どうやら媒体を通して見るあの形の整ったヌードというものは現実ではあまり見かけることがなくて、腰と腹をつなぐなだらかな曲線がどうも配置が緩いヌードや、逆に華奢でどうも頼りないようなヌードもあって、そういう商業的なヌードというものは、需要があってそれに見合ったもしくは超えるような供給をするよう意識された、選ばれたヌードであって、でも、今まで出会ったすべての女性のヌードにはそれぞれ個性があって、良さがあった。

でも、書道の時間にたいして字も上手くない、意欲もないような生徒が単なる物欲だけで欲しいと思った白い高級な筆を親に買ってもらって、実際に使ってみても、その筆のしなやかさや素材の良さをなんら使いこなせなくて、平凡な字で、平凡な配置と平凡なはねと平凡なはらいで書かれた、どこにでもあるような作品を廊下に綺麗に並べても誰も気にも留めないようなそれのように、
今の僕には、自分の中に取り込めない、取りこぼしが必ず発生してしまうようなそのヌードには惹かれないように制御されている。絶対に手の届かない位置にある山葡萄を見て、「あれは酸っぱいに決まっている」と言って去っていくあの狐のように。

一方で、男性のヌードというものは、直線的でギリシアの彫刻のような隆々とした躍動する肉体こそが最も美しくて、女性のヌードとは異なっている。女性のヌードは曲線的で絵画的だからで、
とは言っても、ボディビルのコンテストで優勝した人の体を見て、湧き出るものはあまりなく、単に綺麗に整えられた肉体である、それ以上の感情はなくて、模型のような質感を抱く。

ヌードというものは、何も装飾がなく、そのままの姿であって、普段の生活習慣がそのまま映し出される。美輪明宏が言っていた、
「お風呂屋さんで、立派な身なりの紳士はさぞかし立派な裸かと思っていたら、もう気の毒になるぐらい貧相な体をしていらしたり。その逆に、もう入ってきただけで臭う、何年も洗っていないような野良着の女性が裸になると、マイヨールの彫刻みたいな素晴らしい体だったりする。
だから、『着るものなんて嘘っぱち。この裸のままが本当の人間だ』『容姿、容貌、年齢、性別、国籍。着ている物や持っている物、目に見えるものなんて見なさんな』となっていく。見えないものを見る。心や品性こそが重要なんだという意識が自然と芽生えました。」
はヌードこそが本当の人間の姿であって、でもあの棺桶のおばさんのように実際のところは醜く情けないものであって、生きている間は他人との比較から気を遣ったり、自己実現からくる改造欲だったり、いろんなことを考えてなんとか見られるような見た目をしているだけで、もちろんそこには努力があって尊敬に値しますし、そういう人の方が、何も努力しないで他人を腐すような人よりはずっといい。

僕にとって完璧なヌードというものはまだ出会ったことがありません。自分自身にもそういうものを見出せないように。
よく、本物を見分けられるにはまず自分自身が本物にならないといけないと言いますが、自分はまだ不完全で足りないものばかりで、これは見栄からくる謙遜ではなくて、自分自身を誰よりも良く知っているからで、でもその不完全さにぬるま湯にだらだら浸かるような一種の居心地良さを感じることもあって、
もしかしたら僕にとって完璧なヌードというものは、僕のように不完全で、少なくとも商業的なヌードではないことははっきりしている。

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